きつねのゆかた



『きつねのてぶくろ 』 より





     


 柱時計がボーン…と鳴って、夕刻を知らせる。
 政宗は椅子に座ったまま、気づけばとろとろと眠っていたようだ。顔を上げると店の大きな窓から、まだ明るい空が見える。
 日は山に沈みかかっているのだろう。立並ぶ家の面も、政宗の店の中も、薄蒼い影に染まっていた。
 政宗の店はこの小さな町の、商店街を少し外れた場所にある、小間物屋である。
 看板にはただ『手袋と帽子』と書いて、ついでに日傘やらハンカチやらこまごました物を売っている。
 この二十歳を越えたか越えないかという若さの、鋭い左目だけを覗かせた店主の売る小間物は、町の人々には存外、評判がいい。
 今は棚に並んだ帽子も、端のほうに寄せられた夏物の手袋も、影になっている。
 灯りを入れようと政宗は立ち上がった。
 木で出来た椅子の脚と床がすれて、きしんだ音を立てる。堅い背もたれに預けていた体も、わずかにきしんだ。
――なつかしい夢を見た。そんな気がする。
 提灯のほの黄色い色が照らす、露店の金魚、浴衣の袖の藍色、川辺の柳葉。
 右目を押さえると、いつも薬屋で買う眼帯の、柔らかい感触があった。
「…祭りか」
 思い出したように、政宗はつぶやく。
――この小さな町の、夏祭りが、もう始まっているのだ。
 ひとつき前には、商店街に一軒だけある服屋が、木綿の反物を仕入れてきた。町の女はそれを買って、裁って、縫って、浴衣を作るのである。
 白の藍の、薄紅の。桔梗、撫子、朝顔と、縞に、格子に、麻の葉模様。政宗の店でも縮緬のはぎれを分けてもらって、簪に飾る綿入り紐や、花の形の簡単な髪飾りを作った。
「Sold out…今日は店仕舞いだな」
 あくびを噛んで、つぶやく。
 開けたままの戸から吹き込む風に、いつもはない不思議な匂いや、御囃子の笛太鼓の音が、かすかに混じっていた。
 政宗は、誘われるように店先へ出た。
 政宗の店が並ぶ道が、少し先で商店街と交叉する。そこだけ光がふわりと集まって、提灯の、街灯の、露店の灯りの中を、川を泳ぐ魚のように人が行きかっている。
 風に、うっすらとにじんだ汗が冷やされる気がして、政宗は心地よく左目を閉じた。
 閉じて開くと、赤毛の子どもが、そこにいた。



 政宗は左目を瞬かせた。
 年のころは三つか四つ、ひとりでいるのが不思議なほど、小さな子どもである。
 それが、いつの間にか足元に立って、じっと政宗を見上げているのだった。
「Ah…お前、どこの子だ?」
「……」
 髪は、奇妙なほど、紅い。
 紅葉の染まりきったような色で、子どもの目元を覆っている。政宗も茶色がかった黒髪の、前髪を右目にかけているが、この子どもはほとんど顔半分しか見えていない。
 前髪の下に小さな鼻があって、口が静かに結ばれている。
「父さん母さんはどうした」
「……」
 しゃがみこんで訊ねると、ふるふると首が振られた。
 浴衣は藍色。白い縦縞が抜かれている。
――珍しくない、けれど不思議な柄だ。
 政宗は首を傾げた。
 藍色の川を流れる、水面のすじのようである。
 宵闇に降る、雨の線のようでもある。
 見つめると、青がにじみ出てくるようで、ちらちらと線が動き――さらさらという音さえ聞こえてくるような気がした。
――奇妙な感覚だった。
 小さな手の、中指が長い。
――覚えがある。
 政宗は、にやり、と笑った。
「…兄ちゃんと姉ちゃんは、どこだ?」
 吊り上った口に牙のような犬歯がのぞく、狼のような、曲者めいた笑みである。
「……」
 子どもは臆した様子もなく、政宗の後ろを指さした。
 振り向いても、誰もいない。
 ただ、屋根が並ぶ道の向こうには、山の陰があった。
 南の山には狐がすんでいる。
――顔なじみの狐だ。
 顔なじみだと、政宗は思っている。相手はどうだか分からない。
 狐は赤みがかったオレンジ色の髪の、十二か三かという歳の少年の姿で、時おり政宗の店にやってくる。
――冷めた鳶茶色の目で、生意気そうな顔をして、あまり懐いた様子も見せない。
 けれど名前は教えてくれた。
「お前、佐助の弟の、小太郎だな?」
「……」
 子どもはこっくりと、うなずいた。
 遠い提灯の灯りを背負い、影と紅赤毛に隠れた目は瞳の色も分からない。
 けれど、兄狐と自分の名を呼ばれてか、口元は少し嬉しそうに見える。
「今日はひとりか」
 冬の日に、この弟狐を抱えて手袋を買いに来たのは、金の髪の少女だった。人の姿は七つか八つほどの、あれは佐助の妹であり、小太郎には姉になるのだと聞き知っている。
「……」
 再び、こっくり。
 政宗よりひと回り小さな頭が、人形のように揺れた。
 耳も尾も見当たらない。
 赤毛の紅色だけ残して、きちんとヒトの子どもの形をしている。
「Well,ちゃんと佐助たちみたいに、できるようになったってわけだ」
 毛色のほかに狐の証は、少し風変わりで涼しげな、藍の浴衣だけである。
――浴衣。
 ふと政宗は、紅赤毛の向こうの提灯の明かりと、流れていく人々に目を向けた。
 明るく見えた空も夕日の色をにじませ、陰る道に灯りと祭囃子がふたりを誘うようだ。
「お前さんひょっとして、祭りに行くつもりか」
「……」
 小さな手が、政宗の長袖シャツの袖口を、きゅっとにぎった。
「Oh,」
 連れて行って欲しいのか、着いて来て欲しいのか。
 幼い姿はいずれ狐であろうとあるまいと、放っておける風ではない。
 温い風が吹いた。
 空はどんどん、日暮れの蒼に染まっていく。遠くの提灯は優しい卵色だ。
 政宗は昔、兄代わりの男にせがんで連れて行ってもらった祭りを思い出して、気がつけばうなずいていた。
「All right,いっしょに行ってやるよ」
「……!」
 小さな口がほころんで、こくこくとうなずく。
――言葉こそないが、兄狐より分かりやすい。
 政宗は橙頭の少年の、愛想のない顔を思い浮かべ、知らず顔を笑みに染めた。
 すると、その背の方から――くいくい、と裾を引かれる感触。
 振り向いて、政宗はぎょっとした。
「……」
「……」
「……」
 紅赤毛の小さな頭が、もうふたつ、並んでいる。





     


 あわせて三人。
――いや、三匹か?
 少なくともひとりは小太郎なのだから、他は小次郎と小三郎だったりするのだろうか。あと頭数が七つそろえば、最後は小十郎になる。
 そこまで考えて、政宗はクツクツと笑った。
 人の姿をした子狐は、政宗の手をきゅっとにぎって、コロコロと草履を鳴らしていた。
 他のふたりは、人の流れの中を泳ぐように歩き回っている。
 最初は見失わないように気を張っていた政宗だったが、やがて諦めた。放っておいてもあちらが政宗を見つけて、入れかわり立ちかわり、順番に手をつなぎに来るのである。
――まるで見分けがつかない。
 紅い頭と、藍に縞のゆらめく浴衣。
 幼いころから人の多いところは苦手だったが、小太郎と手をつなぐと、政宗も川を泳ぐ魚のようで、不思議と涼しい心地がした。
 温い空気に材木の匂い、醤油やら油やらの焦げる煙が混ざっている。
「何か食うか?」
 露店を指さすが、小太郎はふるふると首を振る。
――こちらはこちらで、歩くだけで楽しいようだ。
 カラン、コロン、とあちらこちらから草履や下駄の音がする。
 人の流れは西の山の、暮れ空がまだ少し朱を残す方へと向かっていた。
 西の山には神社がある。町の東、鈍行列車の止まる駅から通りが伸びて、石段をのぼって境内に着くのである。
 通りではいつもの肉屋が串揚げを売ったり、酒屋が青い壜を氷水に浮かべていたり、よく見れば政宗にも見知った顔が多い。その店の裏を子狐の紅い頭がのぞきこんだり、小さな手が氷にさわろうとするのは、慌てて呼び戻さなければならなかった。
 半分はよそから来た人間のようで、年季の入った看板を掲げている。そのどれもが提灯の卵色に照らされて、同じように神社の方へと肩を並べていた。
「おい、」
 不意に、政宗の耳に声が飛びこんだ。
 小太郎の紅い頭に気を払っていた政宗は、立ち止まり、左右を見た。
――どこかで聞いたような声だ。
「おい、政宗」
 また、明らかにこちらに向けられた嗄れ声。
 くいくいと小太郎が手を引くのに目を向ければ、ななめ後ろを指さしている。
 通りすぎたイカ焼きの店の中から、銀色の頭に鉢巻を締めた男が腕を振っていた。海の男、というには日焼けが足りない顔の、左目には江戸紫の布眼帯。
 カラン、とどこかで草履の音が響く。
――元親」
 瞬きをして、名を呼んだ。
 政宗には昔馴染みの顔だった。
――季節しだいで漁に出たり埋蔵金を探したり、そう言えばこんな仕事もしていたろうか。
「よお、意外なところで会うじゃねえか」
「Yes,元気そうだな」
 政宗がにい、と笑うと、元親は気のいい顔でくしゃり、と笑った。
 年は五つと違わないはずだが、政宗より頭ひとつも背が高い。腕や胴もひと回り違うだろう。白地に大きく紫のカタバミと鯉とを染めた浴衣、たすき掛けの布も濃い紫だ。
「何だ何だ、祭りにそんな格好でよ」
 カラカラと笑われた政宗の方は、仕立ては良いが着古した、いつもの白いシャツである。
 ほれ、とイカの串を差し出しながら政宗の手のほうに視線を向けて、元親は目をむいた。
「しかも子連れか!」
「俺の子じゃねえけどな」
 ポケットの銅貨を探しながら政宗は答える。
「……」
 小太郎は赤毛に隠れた目で、じいっと元親を見上げている。
「こんな町に住んでるとはなあ…悪くねえとこには見えるけどよ」
「いいとこだぜ?実際」
「そっか。まあ馴染んだみてえだし、よかったよかった」
「ああ」
「…たまには帰れよ。右目の兄さんが心配してたぜ?」
 責める風でもない言葉に、政宗はしばし口を結び――にやり、と意地悪く唇を歪めた。
「小十郎と会ってんのか」
「う」
「何が『意外なとこで』、だ」
 チャリン、と銅貨を置いて、イカ焼きの串をつかむ。美味そうな焼き色に目を細めた。
「いや、祭りに来ると思わなかったんで、後で訪ねるつもりでな」
 ガシガシと銀髪を掻く男の言葉に、嘘はなさそうだ――けれど、小十郎の頼みで来たことは伏せておくはずだったのだろう。そう考えて、政宗は柔く苦笑した。
「まだ一年も経ってねえんだ。しばらく店の面倒をみたい」
 小十郎、というのは、幼いころから政宗の兄代わりだった男である。
 この町に越してきてからも、しばしば手紙のやり取りをしているので、それほど離れている気もしなかった。
「まあいいさ、時間があったら俺の店にも寄ってくれよ?」
 じゃあな、と小太郎の手を引いて歩き出した政宗に、「おい、」と声が追いすがる。
「おい、政宗!」
「…何だ」
 珍しく食い下がる、と僅かにいぶかしく思って振り返ると。
「こいつら、つれてけ」
 紅い頭ふたつ、生イカをくわえたその首根っこを両手につかんで、元親は途方にくれた顔をしていた。





     


 紅い丸い、りんご飴も買ってやった。
 小太郎は変わらずひとりだけ政宗と手をつないで、ふたりは政宗の見える辺りに紅い頭をのぞかせている。
 ひとつずつ持たせたりんご飴を、手をつないだ小太郎が政宗に差し出した。
 ひとくちだけ、と分けてもらう。
――つやつや光って、甘酸っぱい。
 和紙を貼って作った、ひょっとこの、天狗の、お面が並ぶ前を通り過ぎた。
 白地に紅い隈取の、すました狐の面。手をつないだ子狐の紅赤毛でなく、兄狐の柿色頭を思い出して、クスリと笑みがこぼれた。
――狐は冷たく、そっぽを向いた、気がした。
 カランコロン、と草履の音。
 ざわめきが流れるような中、小太郎の足音もコロコロと鳴る。
 ふと前を見ると、りんご飴に似てつやつや紅い頭がふたつ、店の前に並んでしゃがみこんでいた。
 政宗の手をにぎるひとりも、そちらへそちらへと向かっている。
「Hey,お目当てはなんだ?」
 欲しいものがあったら教えるように、と言い聞かせてあった。
「……」
「……」
「……」
 ゆらり、と水に提灯の明かりが揺れる。
 その下を、朱と黒が泳いでいる。
「金魚か」
 こっくり。
 と、みっつの頭がそろってうなずいた。
 店の親仁に銅貨を払うと、待っていたように右腕が三本、水を覗き込んで持ち上げられる。
 昔本の挿絵で見た、鮭を捕る熊を思い出して、政宗はあわてた。
「Wait,Wait――!」
 待て、の声に、きょとんと傾げられる小さな頭。
「捕ってやるよ。どれがいい?」
 半紙を貼った金魚すくいをかまえると、ひとりは大きな朱色をゆびさし、ひとりは朱に斑の入ったのをゆびさし、ひとりは黒をゆびさした。
「Okay-Dokay,まかせとけ」
 政宗は笑って金魚を三尾、おまけに小さいのを二尾と、椀にすくいあげる。
 ふたつの袋に分けてもらって、持たせてやると、目元の隠れた小太郎の顔がパッと輝いて見えた。
 金魚はゆるり、と透明な水を泳ぐ。
 食べるなら、山に帰ってからにしろよ――と、小狐に言おうとした、その時だった。
 パン、と何かが弾けるような音。
――火薬の匂い。
 隣の露店の前で、どこかの子どもが歓声を上げる。
 火薬を叩いて音と匂いを出す、弾もないピストル。
――ただの、おもちゃだ」
 だから大丈夫だ。
 と、政宗はしがみつく紅赤毛をみっつ、それぞれ撫でてやった。
 カラン、と草履の足音がまた、響く。
――そう言えば兄狐の佐助は、人間嫌いだ。
 その妹の金毛のかすがは、政宗に最初、ひどくおびえた顔を見せた。
 狐のきょうだいの親はいないらしい。
「神輿だけ見たら、帰ろうな」
「……」
 小太郎は政宗の手を少しだけ強くにぎって、小さくうなずいた。
 境内に近づくにつれ、人の流れが混みあってくるようだ。少し汗ばんで、政宗は息をつく。
 苔むした石段を小太郎に合わせてのぼりながら、すっかり暮れた空を見上げた。
 提灯が並んでいなければもう少し星が見えただろう。
 石段を囲む山の木々も、灯りの後ろで闇に沈んでいた。
 御囃子の笛の音や、かつぎ手の掛声が近づく。
 上りきると人々の頭の向こう、神輿が飾りを揺らし狭い境内を周っているのが見えた。町の大通りを一周してきたところだろう。
「ほれ、見えるか?」
 小太郎を肩車してやって、ふと、他のふたりが見当たらないことに気づいた。
――人混みに入るすきも見えないが、小さな体でもぐりこんでしまったのだろうか。
「…Excuse,失礼、」
 縄の張られたところまで出て、ぐるりと見回すが、小さな赤毛は見当たらない。
 また人を押しのけ、押しのけ、政宗は人垣の周りを歩いた。
 開いたままの左目に、汗が入りそうになって、袖でぬぐう。
 シャツの背がじわり、と冷えた。
「小太郎、…小太郎、」
 政宗はくりかえしくりかえし、名前を呼びながら歩いた。
 どちらが迷子か、と声の情けなさに目頭を押さえる。
 やがて、肩に乗せたままだったひとりが、ぺたぺたと政宗の頭を叩いて、人垣を外れた暗がりをゆびさした。
 紅い頭がふたつ。
 山の狐らしくそっと、あじさいの葉の影からのぞいている。
「Oh my,…」
 政宗は深く深く、息をついた。
「そこにいたか」
「……」
「……」
 肩のひとりを下ろして、切り株に腰を下ろす。
「悪かったな、目離しちまって」
 ふるふると頭がそろって横に振られるのに、政宗はホウ…と笑った。
――少し、めまいがする。
 人混みは久しぶりだった。
 小太郎の浴衣の藍の、静かな水のように揺れる縞模様が、目に涼しい。
「……」
「……」
「……」
 小太郎たちは互いに顔を見合わせて、政宗の手をくい、と引いた。
 両手を引かれて政宗は腰を浮かせる。
「ああ、神輿だったな」
 ふるふるとまた首を振る、紅赤毛が提灯の灯りで橙に光った。
――帰ろうって?」
「……」
 こっくり。
 うなずく頭に政宗もうなずき返して、立ち上がる。
「そうだな、木立を通っていけばはぐれないだろ」
 紅い頭がみちびくほうに歩き出した。
 靴の下で、草がサリサリと鳴る。





     


 提灯の灯りを右手に、すぐに石畳につくはずだった。
――見失ったのは、右目が見えないためか。まさか。
 政宗は肌に慣れた眼帯の、柔らかい闇を指で押す。
 紅い頭はみっつ、あちらへ向いたりこちらへ向いたり、道を探しているようだ。小さな体の藍色の浴衣が、縞だけ残して闇に溶けこんでいる。
 子狐は山のもの――けれど、ここはまだ西の山だ。彼らのすむ山ではない。
「Hey,はぐれるなよ」
 それだけが心配で、政宗は声をかけた。
――見失った灯りも人の声も、すぐ見つかるだろう。そんなに歩いてはいないはずだ。
 立ち止まって、ぐるりと周りを見回し、目をこらす。
 と、木々の影がひときわ集まったような闇に、ちらり、と灯りが見えた。
「…あれじゃねえか?」
 小太郎を手まねいて、光をゆびさす。紅赤毛はそろって首をかしげた。
 政宗はニ、三歩踏み出して、見間違いでないと確かめた。心なしか卵色より、橙がかった光だ。
 ほっとして、小太郎の手をつなぎなおす。
「来いよ、…そろそろ佐助たちも心配するだろうな」
 声をかけ、後の言葉は半ばひとりごちるように言って、歩き出した。
 ガサガサ、と草を踏む。
 少し、腕が重い。
 重いのは小太郎の足どりだ。
 どうしたのか、と政宗は首をかしげる。と。
 シャン、――と、涼やかな音に耳を奪われた。
――鈴か。
 やはり、人がいる。
 小太郎の足が止まった。
「どうした?」
「……」
 政宗の手をにぎったまま、小太郎は首をふる。
「小便ならその辺で、」
 首を振る。
 政宗は灯りのほうを振り向き、紅い頭を見て、少し考えた。
「…分かった。怖い人間がいないか俺が見てきてやるから、お前らここで待ってな」
 笑って言うと、紅赤毛を順にかき回す。小太郎たちは顔を見あわせた。
 シャン、シャン、と、鈴の音はまだ響いていた。
 ガサガサと草を分けて進む。
 木々の向こうに、火を入れた石灯篭が見えた。
――いくつもいくつも、並んでいる。
 神社の裏手だろうか。御囃子の音も聞こえない。
 灯籠は小太郎ほどに小さくも、政宗より大きくも見えた。古びているが苔はきれいに払われて、ふたすじの列を作っている。
 道があるのだろう。そう考えながら、政宗は左目を細めた。
――右目の裏に、何かが映りそうな気が、一瞬。
「Ah?」
 脚をつかまれた。
「……」
「……」
「……」
 りんご飴のような、紅い頭がみっつ。
 政宗の両足にしがみついている。
「おいおい、――What are you doing?」
 しがみついたまま首を振る。
「…行くなってことか」
 こくこく、といっせいにうなずかれた。
 政宗はちらり、と灯篭のほうに目をやる。
 カラン――とどこかで草履の音。
 ひらり、と何かがひるがえった。
――藍色の、浴衣の袖だ。
 白い手も見えた。女だろう。
「ほら、人もいるじゃねえか――?」
 どこか懐かしい気がして一歩踏みだすと、片足が軽くなった。
 小太郎の小さな体が、光を背負って政宗の前に立ちはだかっていた。
「……」
 その肩にふたりが乗って、三人重なってぐらりと前のめる――と見るや、影がくるくると絡み合って、ひとつになる。
 政宗は目を見開いた。
 自分より上背の高い、紅赤毛の、藍に不思議な縞の流れる浴衣を着た――若い男が立っていた。
 飴のような紅い目が、一瞬見えた気がした。
「こ、」
 小太郎――
「……」
 男は沈黙で答えて、あるいは答えもせずに、政宗を肩にかつぎ上げ。
「ちょ、お前!」
 止める間もなく山道を駆け出す。
「どっちに向かってんだ!」
「……!」
 風のように駆ける男の足元で、草がざざざ、と鳴る。
 政宗をかつぐのと反対の手に、りんご飴と金魚の袋が揺れている。
 男はめくらめっぽうに、光から離れようとしているようだった。
 闇のほうへ、闇のほうへ。
 熱く汗ばんでいたはずの政宗の背を、ひやりと寒気が走った。
 草と風以外、何の音も聞こえない。
――否。
 カラン、と、草履の鳴る音がした。
――こんな山道で。
「おい、あそこっ」
 藍の背中を強く叩く。
 右手にせまる竹林が、暗いばかりの木立に青く光って見えた。
 そこに、小さな影がふたつ。
――橙の髪、緑の浴衣。
 白い狐の面を、少し上に押しあげて。
「小太郎、こっち――
 柔らかくて冷たい、少年の声が、弟狐を呼んだ。

   



     


 竹林に駆け込んで、小太郎は政宗をすとん、と肩から下ろす。
 ぜいぜいと痩せた背で息をして、堪えきれなくなったように、ぽん、と小さなみっつに分かれた。
「…Wow,」
 ぐったりと、枯れつもった竹の葉の上に折り重なる、紅葉色の赤毛。藍色の浴衣。
 座りこんだ政宗を見下ろす少年は――佐助は、白い狐の面をひたいの横に押しやって、年に似合わぬため息をついた。
「まったく、もう」
 赤みの強いオレンジ色の髪に、柳の葉の重なる緑の浴衣。うしろには金色の髪と白い浴衣、月明かりに輝くような少女が隠れている。妹狐のかすがだ。
「だいじょうぶか、小太郎」
 心配そうに弟狐に駆け寄って、頭をみっつ、順になでる。
 佐助はみっつの紅赤毛からひとつを選んで、むんずと両手でつかむと、小さく何事かつぶやいた。
「……」
 紅い頭のふたつが音もなく消えて、ひとりだけが残る。
「…どうなってるんだ」
 佐助は自分のより濃く紅い赤毛を、少しだけなでた。
「力が強いの、こいつ」
 末っ子な上に、三匹分で生まれてきたから。
 と、政宗には分かるような分からぬような説明だ。
「自分じゃ手綱とれないんだけどね。あんたとふたりじゃ鴨が葱しょってって言うか、狸が鍋しょってって言うか」
 狐が狸のことを言えるのか、あの灯篭はなんだったんだ、と喉まで出かかった言葉の数々を、政宗は飲みこんだ。
 鳶茶色の目がちらり、冷たい光をのせる。
――食われるとこだったよ」
 ざわり、と風が吹いて、竹林の天蓋のような梢が鳴った。
「…そうか」
 政宗はその目をじっと見て、頭を下げた。
「Forgive me.知らないで、弟を危ない目にあわせた。悪かったよ」
「……、」
 すると佐助は、戸惑ったように政宗を見て、唇をかんで。
「…心配かけさせないでよね」
 と、うつむいてぼそぼそと言う。
「ああ。助けてくれてありがとう」
――半ば追い討ちをかけると分かっていて、それでも心からの言葉だったので遠慮なく言うと、狐の白い顔に赤みがさした。
「だ、だいたい、かすががりんご飴りんご飴うるさいから小太郎が――!」
「言ってない!そんなに言ってないぞ!」
 顔の赤みが妹狐に飛び火する。
 ぽて、と座りなおした小太郎が、未だ手に持っていたりんご飴をふたつ、確かめるように月明かりにかざして。
「……」
 両手に持って、差しだした。 
「おい、お二人さん?」
 政宗の声に、キイキイ言っていた子狐二匹がふりむいて、同じ動きで瞬いた。
「あ――
 拍子抜けしたように、それぞれ受けとる。
――考えてみれば、頭みっつぶん買ってやったが、ひとつしか食べていなかった。
「そうか、みやげだったのか」
「……」
 妹狐はとろりとつやのあるりんご飴の紅と、弟狐の紅い頭を見くらべた。
「ありがとう…」
「……」
 りんご飴の頭が、こっくりとうなずく。
 そうして差し出されたかすがの手をにぎって、小太郎は立ち上がった。
「かえろう。佐助」
「…ああ、そうだな」
 うなずく兄狐に、政宗も腰を上げて草をはらう。
「お前らはいいのか?祭り」
 首を傾げれば、呆れたように鳶茶色の目が細められた。
「こりないね、あんた。…おれは興味ないよ」
――そうか」
 知らず、政宗の声は残念そうな、寂しげな色になる。
「…、うん」
 少年の声が少し、とまどった。
――ちゃっかりつけている狐の面については、言わないでおいてやろう。
「仕方がないな。じゃあ、行くか」
 小太郎とはさんざん手をつないだから、と思って政宗はかすがに手をさし出した。
 妹狐は少しだけ唇を固く結んで、首をふる。
 金の髪はきらきらと揺れて、青竹を照らすように見えた。
「みんなで手なんかつないだら、歩けない」
「…そりゃそうだ」
「わたしたちがさきに行くから、お前は佐助につかまってろ」
――怒ったような口調は、照れているのだろうか。
 似たもの兄妹だな、と政宗は思った。
 月明かりのような金の髪が風になびく。
――きれいな顔に白い浴衣は似合うようで、少し寂しい。
 水の影のような淡い灰色が円を描いて重なるばかりで、帯は竹の青だ。竹林がざわざわとこずえを揺らすたびに、さわさわと小さく揺らめいている。
 ふと、その袖を小さな手がひいた。
「どうした?小太郎」
 お姉さんらしくこたえて、かすがは小さな頭をかしげる。
 小太郎は金魚の袋の口を開け、ひらひらした尾をつまんで、かすがの浴衣に放した。
 朱色の、斑入りの、黒の。
 金魚は順に円に飛びこむと、染めた柄のようにじわり、横顔を見せて浮かび上がった。
 見る間にかすがの浴衣は、華やかな金魚の柄になる。
 金毛の狐は袖を広げて、笑顔ではない、けれど何とも言えず嬉しそうな照れたような顔をした。
「…、きれいだな」
「……」
 紅赤毛は満足そうにうなずいた。
 政宗も、ぽかんと開けていた口で笑って、ひとつふたつ、うなずく。
「うちに寄ってけよ、似合いの髪飾りつくってやるから――
 袖をひかれてふりかえると、橙毛が苦い顔を見せていた。
「あのさ。あんまり、甘やかさないで」
「…Well,お前もなんかほしいか?」
 そういう問題じゃないのっ、と小さく叫ぶ兄狐をよそに、かすがと小太郎は歩き出している。
 政宗は、ほれ、と佐助に手をさし出した。
――なに」
「お前につかまって歩け、とさ」
 すると、佐助は政宗を見て、金魚のように口をパクパクさせて、何かを言おうとしたらしい。唇を噛んで、開いて。
「…危ないから」
「ああ」
「暗いから!」
「そうだな」
 突き出された手をにぎると、ひんやりとして、そのくせ狐はとても熱そうな顔をしていた。
 竹林の青みがかった緑を風が渡る。
 橙頭が着た浴衣の、柳の葉がさやさやと涼しげに鳴る。
――懐かしい匂いがする、夏の夜だ。
 政宗は夜の空気を吸いこんだ。
 ぽちゃん。
 と、すぐそこで、金魚の跳ねる音がした。























続≫きつねのわたぼうし 10/07/27 改稿・掲載
初出:memo(2010/07/10〜14)