風が声   壱


 春、相模。
 小田原城の五分咲きの桜の下で、片倉小十郎景綱はその厳しくも端整な顔を曇らせていた。
 麗らかな青い空、冬を抜けて輝く若い緑。
 しかし大地は血にまみれ、今日も彼らの軍では負傷者が出ている。
 そしてなにより彼の使える青年が、一人で敵軍の大将の元へと突っ走っていったまま、帰ってこないのだ。
(まったく、相も代わらず政宗様は無茶ばかり…)
 その無茶が、時には敵軍を霍乱するためのものであり、時には率いる兵たちの被害を最小限に留めるためのものであり、何よりも天下をすべた後の泰平のためであることを知っているから、小十郎はその背を全力で守るより他に術は無い。
 そして、そのことを誇りとしている。
 今もその背の後ろには控えられなくとも、その背を追う敵の全てをなぎ払い、降伏させて此処に立っているのだ。
 それでも静かに、内心には不穏な風を吹かせながら小十郎は城を見上げてしまう。彼の主である若い竜の、美しく澄んで硬い、その鱗の――裏腹な脆さと、その下の柔さを、思う。
 ハア、と重苦しくため息をつくと、この“竜の右目”とも呼ばれる強面の武将の様子を伺っていた足軽たちは、びくりと慄いた。
 小田原の強固な城に集っていた兵たちは、『負けたもんは仕方がねえ』と存外に清く伊達軍に下っている。
 奥州の奇抜な出で立ちの兵たちに睨まれながら身を竦めていた、その内の一人が、恐る恐る口を開いた。
「あの…なあ、伊達軍の兄ちゃんよお」
「ァア!?」
 若い一人が無意味に凄む。
「い、いや…その…」
「なんだ、言ってみろ」
 強面の小十郎がずい、と近づくと、それはそれで一瞬怯んだ北条の兵士は、ぼそぼそと呟いた。
「あんたらの大将は、氏政様の首を取っちまうかねえ」
「さあな。相手の出方しだいだ」
「…悪い人じゃねえんですよ。ちょっと頑固でしょうもないところのある方だけど」
――生憎、政宗様は悪を征するために此処に攻め入ったわけじゃねえんだ」
 だから、恐らく心配は要らないだろう。
 とは思うものの、小十郎はそれは口には出さなかった。北条氏政の方が『負けたからには首を落とすが良い!』などと言い出すかも分からないし、勝手に腹を切る可能性もある。
 遠い目をして、また青い空を背景にした小田原の城を見上げる。
 と、その時。
「小十郎!梵が、梵が!!」
 伊達籐五郎成実の焦った声が耳に届き、小十郎はカッと目を見開いて刀のつばに手をかけた。
「政宗様に何があった!?」
「いや、無事だけど!梵の奴、忍を連れて帰ってきちまったんだよ!」
「……!」
 キイン!と硬い音を立てて小十郎は刀を抜いた。
「小十郎オォ!?梵は無事だってば!」
「あの野郎…性懲りも無く政宗様に近づきやがったか…」
 一本切れた風の小十郎に、成実は青い顔でぶんぶんと手を振ってみせる。
「違う違う!あの、じゃなくて、北条の――!」
「…Hey, お前ら何騒いでやがる」
 僅かに掠れた声が、落ち着いた響きで場に通った。
 青い戦装束。右目の鍔眼帯。
 その後ろ、三歩下がって影踏まぬ位置に立つのは、鉄色に身を包んだ――
「ああ、こいつな。北条の爺さんから預かった」
――風魔小太郎。
「北条の伝説の忍だとよ。Coolじゃねえか、なあ?」
 静まり返った小田原城下に、風にそよぐ葉擦れの音だけが響いていた。

   *

「…つまり、北条とは同盟を結ぶ運びとなったわけですね?」
「ああ。もう大体はその場で取り決めてきたぜ」
 ほらよ、と渡された書状を開き、ザッと目を走らせて小十郎がにやりと口端を上げる。
 その表情にホッとして――(うん、悪人面だけどいつものことだから)成実も書状を覗き込んだ。
 悪くない。伊達軍に有利で戦に負けた北条が飲める範囲の内容だ。
 しかし。
「…この、『風魔が忍は伊達軍に置かれたし』の一文」
「Ah-, 老兵の自分は引退するが、力のある武将が名前を挙げるチャンスはどんどん作ってやってくれとよ。爺さんが泣いて頼むんだぜ?」
『北条の伝説の忍……このまま、このまま朽ちさせる訳にはいかんのぢゃあああ!!!』
 苦笑する政宗に、丸腰で座り込んだ北条の兵たちがさもありなんと頷いてみせる。
「氏政様にゃあそういう所があるからなあ…」
「こうなったら自分以外の連中に名を上げさせて、『さすが北条の!』とか言われたいんじゃないかねえ」
 さわさわと揺れる桜の枝々を背景に、交わされる言葉は呑気なものだ。
「まあ俺としちゃあ使える奴は使うつもりだがよ」
 顎をかいて答える青年に、小十郎はキッと顔を引き締めた。
「お言葉ですが政宗様、下ったも同然とは言え他国の忍を置くなど危険に過ぎますぞ」
「Ha, 何言ってんだ小十郎。情報なんざ隠しても忍んで暴ける連中だぜ?北条の爺さんが命令を出すか出さねえか……あとは何処に置いたって同じだろうがよ」
 違うか、と兜を外した青年が、片倉景綱を真直ぐに見る。
「それに左右される政はしてねえよ」
「…――情報より、御身を心配していただきたい」
 晴れて乾いた空気に雷が走った。
 竜の左目が細まって、右目を睨む。
――それこそ心配いらねえな。この俺の首が取れるなら、爺さんが落ちる前に取ってただろうさ」
 だろ?と振り向いた若き将に、戦忍は返事を返さない。
 喋れないのか喋らないのか、頷きもしない忍に、けれど政宗は怒りもせず――代わりに小十郎が殺気交じりの視線で突き刺した。
「…あれを、軍に置く、と仰いますか」
「軍って言うか城だな」
「政宗様!」
「梵…!」
 流石に成実も口を開いた。
「戦忍でもさ、毒殺とか寝首をかくとか出来るわけだし…堂々と城の中にいれるなら、探れる情報も利用できる人間も比じゃなくなるよ。何より一番危険に晒されるのは梵なんだぜ?」
 政宗の左目が、すうっと色をなくす。
「あ…」
 成実は言葉を失った。
 城中の者による、暗殺。
 それを問うなら忍の心配をするよりさらに先に、さらに根深い問題が、奥羽の地に燻ぶっている。
――俺のことなら大丈夫だ」
 分かるだろう?
 何度も殺意を切り抜けて、それを逆に利用してきた若い主君の声が、静かに響いた。
 風に揺れた桜の枝から、ひらり、ひらりと僅かに二枚、その花びらが舞い落ちる。
 小田原の城の中に負傷した家臣が戻り始めたのか、かすかに届く遠くからの喧騒に、政宗はふっと顔を和らげた。
「…ま、敵軍に置かれるってのはこういう事だな。何かあれば疑われるだろう――来るも帰るも好きにしろよ」
 北条の爺さんには俺から言ってやるからよ。
 相変わらずそこに佇んでいた鉄色の影は、その言葉にすいと顔を背けた。
 見上げるのは、小田原城の天守閣。
 一瞬クッと止まった顔が、すぐに奥州の主を見て、膝を突く。

『氏政様の命により』

 日に晒された竜の白い顔の、左目が軽く見開かれ――はんなりとたわむ。
「Haha!…そうかい、じゃあついて来な」
 破願した表情は十九の歳に相応しく、精悍な顔に子どものように楽しげな笑みを咲かせる。
 そうして政宗が踵を返すと、途端に忍は姿を消した。
「梵!」
 成実が焦って声を上げるが、政宗は見もせずに数歩先の樫の木を指差す。
「…あそこか」
 示されれば、緑陰の一番濃い影に、鉄色が潜んでいるのが成実にも分かった。
 まるで気配のないそれを、どうして政宗には察知できるのか――
 こういう時にこの従兄は遠い。
 見つめる先で、政宗がニイと武将の顔で笑った。
「撤収だ。…が、まずは小十郎、勝鬨を上げるぞ」
「はっ!おい、野郎ども!!」
 空気を割る低い声に、伊達軍の兵士達がザッと姿勢を正す。
「Hey, guys!俺たちの…勝ちだ!!」
 Ya―Ha―――――!!!!
 轟く声に成実も声を乗せた。
 未だに彼が幼名で呼ぶ成実の主が、強く美しい笑みを浮かべるから。
 けれどその表情が完璧であればあるほど本当はその内側が揺れているのではないかと、そう思うのは成実だけではないようで、小十郎も不機嫌そうなままだ。
 春、伊達軍最初の戦、最初の勝利に昂ぶったままの兵士達が、成実を追い越して駆けて行く。
 残されたの三人の重臣。
「なあ、小十郎、鬼綱……梵は、」
 鬼庭は黙って首を振り、小十郎は低く唸る。
「…考えるべきじゃねえな。何があろうとどれだけ揺れようとも、俺たちは政宗様をお守りするだけのことだ」
 ただし、政宗様を傷つける奴は、生かしちゃおけねえ。
 成実はすでに遠くなった青い背を見る。
(なあ、梵。傷ついてるのか?寂しいのか?――寂しいなら俺は、殺すんじゃなくて奪ってきてやるよ。何だって、誰だって)
 春の桜が紅を含んだ白い花びらを散らす。
 初めて目にした忍の髪の、その紅葉の赤色。それより明るい柿の実のような橙色も、まだ遠い秋のものだった。



















序≪      ≫弐