風が声   弐












 さて、渦中の風魔小太郎はと言えば――
 何かを感じることは少ない、風も波もない深く暗く冷たい湖のようなその心の中。
――戸惑っていた。
 氏政の我侭はいつもの事、そして奥州が独眼竜の突飛さは偵察部隊から耳にするところではあったが。
「ようし、野郎ども。派手に騒げよ!」
 勝ち軍が宴に興じるのは自由だ。寧ろそうして志気を高めるのはどの軍も同じで、無礼講とばかりに酒を酌み交わす武将達の姿は風魔にとっても珍しくは無い。
 しかし何故。
「Hey!飲めよ、小太郎」
 何故、酔った様子も無い――つまりは正気の伊達政宗その人が、風魔を左隣に座らせて自ら酒を注いでいるのか。
 緋毛氈の上での宴を小太郎が眺めていたのは、そこより少し離れた場所から敵襲が無いかを見張りながらであって、決して総大将の横からではない。
 風魔は酒を注がれた杯の水面を、じっと見つめた。
 その横顔を、政宗の左目がこちらもじっと見つめる。
「…毒なら入ってねえし、どうせ毒も酒も効かねえんだろ?」
 怒った様子も無く、ただ観察するかのように忍びを見る伊達の大将に風魔は、そうした考えではない――と示すため首を振ってみせた。
「じゃあ何だ。酒は酔うためだけに飲むんじゃねえ事ぐらい知ってんだろ」
「……」
 もう一度首を振る。
「忍の掟で酒が飲めないのでは?」
「……」
 伊達軍の実力者の一人と見られる、顔に表れた齢より白髪の多い男――確か鬼庭という名の武将の言葉にも、首を振る。
「あれじゃねえの?“小太郎”とか馴れ馴れしく呼ばれたくねえとか!」
「……」
 その若さから、伊達政宗の従弟であり一番槍として名の通った伊達成実と分かる少年の言葉にも、沈黙を守ったまま首を振る。
「政宗様。その者は武将でも客質でもないのです。そのように扱う必要はないでしょう」
「小十郎…」
 冷たい声音を咎めるように右隣の男――問うまでもない、伊達の参謀にその人在りと聞こえる片倉小十郎を、政宗が睥睨する。
 だがその反対隣で、風魔はこくりと頷いた。
「あっ小十郎のが正解だってよ!」
「What!?」
 嬉しそうな成実の言葉に政宗がぐるんと首を風魔に向ける。
 茶色がかった髪が翻り、香の薫りが忍の肌に沁みた。
「フッ、…分を弁えてるじゃねえか」
 にやり、とこちらを見もせずに呟く小十郎に、しかし風魔はようやく馴染むものを見つけた心持ちになった。
 そうでなくては困惑すると、そう感じながら政宗に目を向けると、むうと拗ねた様に唇を尖らしている。
 これは、年若い武将なのだから、あり得る範囲かと、風魔は考察した。
 しかし若いと言っても基準が老将北条氏政なのだから、この感覚も少々ずれているのかも知れない。
 Shucks, と未だ青い齢の竜が呟いた。
 それから、ずいと風魔のほうに膝を進める。
「良いか、俺はあんたを伊達の戦に出すと決めてる。北条の爺さんと約条も取り交わした。――だから、俺はあんたを伊達軍の同盟者として扱う」
 淡々とそう言った後、You see?と唇が動いた。
 『――だから』と言うまでの僅かな間に、口にした以上の考えがあるのだろうと、風魔は推し量った。
 それが策略上のことか、軍事や政に関わることか、もしも“信頼”や“誇り”やそんなものであるなら読むこともできない。
 一つだけ分かったのは、片目のない竜の一つきりの目が、二つ分以上の強さで目の前のものを見つめるという事実だ。
 風魔は、頷いて、杯を口につけた。
「あ」
 梵、アルハラー。
 成実が非難するような顔で言った。
「もしくはパワハラですな」
 鬼庭が手酌で自分の杯を満たしながら言った。
「筆頭ォオ!!酒を無理強いしたいなら是非おれに!」
「俺に!!」
「いや、俺に!!」
 顔を真っ赤にした――多分酒のせいだろう、多分――奇妙な髪型の若い兵士たちが、雪崩を打つように政宗の前に倒れこむ。
「Ah-…,」
 左目を一瞬あどけなく見開いて、次いで政宗はニイと笑った。
「All light,全員に注げ。もう一度乾杯だ!」
 あっと言う間に人だかりができて、いつの間にか忍びの杯も誰とも知れない兵に満たされていた。

 その日、風魔は、『無礼講』という言葉の本当の意味を知った。
 そしてその無礼講は、桜前線を背負うように北上し奥州に帰りつくまで続くのだった――



 と、風魔は。
 そういう言葉で事態を締めくくりたかったのかもしれない。
 うららかな春の日差しに目を細めながら、鬼庭綱元はそう思った。
――だとすれば、甘い。
「いいっすか忍びの兄さん、」
 ぎらりと底光る目。
 馬屋の表で、三対一。
 伊達軍でいわゆる“メンチを切る”という態の若い兵士三人が、伝説の忍びにズイと顔を近づけた。
 そして。
「でぃす、いず、あぺん」
 筆を指してそう言った。
「……」
 風魔は無言である。
 もう一人の兵士が凄むような顔で、紙の束を差し出した。
「でぃす、いず、あぺえぱあ」
――This is,
 異国語を思い浮かべ、鬼庭は小さく首を振る。
――惜しい。あれはどう見ても"a paper"ではなく"papers"だ。
 発音についてはさて置こう。
「……」
 風魔は今度も無言ではあったが、固く組んでいた腕を解き、筆と紙を受け取った。
 おおっと垣根の向こうに隠れているつもりの兵士たちのどよめき。
「受け取ったぜ…」
「受け取ったな」
「やっぱあの兄さん、南蛮の国の人だ」
――南蛮云々というのは未だ一言も言葉を口にしないことと、髪が赤いことからの連想だろうか。
 筆と紙を鼻先に突きつけられたら、受け取って何か書けという事だろうと察しはつく。決して南蛮語を駆使した成果ではないだろう。そもそも風魔は口をきかないとはいえ、言葉を解さないわけではないのだが。
 しかし受け取ったのみならず、忍びはそこに何事か書き付けた。
――何か。
 鬼庭はその紙面が見える位置に移動した。しようと、した。
 だが忍びの方も同時に僅かに体の角度を変えたので、見ることは叶わなかった。
――もう一度。
 と移動すれば風魔も動く。
「何遊んでんの?」
 三度繰り返し風魔がその場で一回転した辺りで、声がかかった。
 大きな子どもに見えるあっけらかんとした顔と伸び盛りの体躯、その従兄に似て茶色がかった黒髪を短く刈り込んだ頭。
「成実殿」
「……」
 風魔も首だけをそちらに向ける。
「いや遊んではいませんが、何故か彼があの場で一回転を」
「いや風魔がってより、綱っさんが風魔の周り一周してたけど」
 否定するように手を振りながら成実は庭に降りてきた。
「まあ良いや。梵がさ、小太郎に晩飯なにがいいか聞いてこいって」
「……」
 わずかに、風が揺れる。
「おっ筆談できるようになったのか?どれどれ」
 ひょいと風魔のその腕の域に入り込んで、すでに書かれていた文字に成実は首を傾げた。
「…“ですいずあぺえぱあ”ってどこの料理だっけ」
 ねえ綱っさん。とこちらを見る成実には答えず綱元はほのぼのとした微笑を浮かべる。
――兵士たちの言葉が分からず書き取ったらしい。理解する気があるなら感心なことだ。
「いや頷いてないでさ。風魔食いたいもんない?」
「……」
 風魔は無言で首を振る。
――忍びの摂る食事には匂いのあるものなど、ある程度制限があるそうだ。
 潜入任務で必要なこともあり、多少は普通の食事にも慣れねばならないとしても、忍隊の者の食事にあまり良いものを出されては困る。
 とは黒脛布を取り仕切る小十郎の言葉で、その眉間の皺を思い出していると――もう一人そんなことを言った者が居た、と綱元の記憶によみがえるものがあった。
『あの人の作るものだと無駄に舌が肥えそうで…ちょっと』
 ゆるく笑って軽く手を振って、続く言葉は『困る』か『迷惑』か。
――のらりくらりとよく動く舌でかわそうとする、あれは確かに奇妙な忍びだった。
 目の前の、ひたすら無言で表情も見えない忍びとはまるで対極にある。
「まあ好き嫌いないってんならいいけどさ。とにかく梵が作るからそのつもりで」
「……」
――否。表情はあるかもしれない。
 多分、風魔もやはり困惑しているのだろう、と綱元は思った。
「あと小十郎が呼んでたから畑行ってくれ。よろしくっ」
「……………」
 野生の生き物のようにその場から駆け去った成実から、風魔は綱元に顔を向ける。
「ああ、景綱の畑なら下の方だ。道なりに行けば分かる」
「……、」
 それが聞きたかったのか別の意見を求めていたのか、とにかく風魔は一つ頷いて。
 旋風になって、消えた。
「うおおお、すげえー!」
 どよめきが生まれる。
――彼は。
 と、綱元は思い浮かべた。
 それを見せる相手を選んでいた。
 伊達軍の若い連中の前では軽く、それでも常人の技を超えた跳躍で逃げたりもしたが、思えば忍びの技の片鱗でしかない。
――賢明だったのだろう。
 風魔が愚かとは思わないが、明日から大道芸を期待されるに違いない。

 伊達軍の無礼講は年中無休だ。
 此処に来る忍びは、まずそれを覚悟しなければならないのである。











続く


壱≪