猿の佐助と河童ちゃんN






 そうしてそれが一瞬の事だったのか一刻の事だったのか、佐助には分からないうちに、まず音が戻ってきました。
 轟々と流れる洪水と、サラサラと降る雨の。
「…雨脚が…」
 その勢いは弱まり、冷たく優しく鼻先を伝います。
 大地は熱を忘れたように静まり返っていました。
 ぐるり、と見回せば、幸村も同じように辺りを見回して、パチパチと不思議そうに目を瞬かせていました。
 鬼男は全てを受け入れるように目を伏せて、静かに佇んでいます。
 これは最後の咆哮を迎える一呼吸なのでしょうか。それとも。

(…あの子は?)

 強い眼差し持つ左の目。茶色がかった鬣。薄青い鱗。

――思い浮かんだその姿を結びつけるより早く、佐助は空を仰いでいました。

 雲の間をうねるような影。
 確かに、やはり、それは流れの姿をした――その輪郭が。
 ゆらり、と揺らめきました。
「佐助、あれは」
 幸村が声を上げ、佐助も目を見開きます。
 竜の姿は今、薄く透きとおって見えました。
 尾の方から風にさらわれる様にして掻き消えていくその後に、残ったのは。

――小さな小さな子どもの影。

 クラ、と傾いで頭を下に向け。
 最初はゆっくりと、それから速さを増して。
 見る間に影は落ち始めました。
「……!」
 佐助が呼びもしないのに、黒い翼が雨粒を切って、差し出された腕をつかみました。
 足が地を離れて、翼はその影の落ちる場所へと空を滑り。
 弧を描くように飛んで、濁流に引き寄せられる様に真直ぐ落ちていく、その影に手を伸ばし。

――ふわりと開いた一つ目が、金色に光りました。

 宙で抱き取った、片腕に納まる細い柔らかい身。
 ザザ、と音を立てて、佐助は川から離れた大地の泥の上に着地します。
 そのまま腰を下ろせば抱えた子どもは膝の上。
 温かさに知らずほうっと安堵の息を吐き――これはひょっとして余計な真似だったかな、 とハタと佐助は思いました。
 鬼男は、先刻の場所から動いていないようです。
(何だか分からないけど、神様、なんだから……川に呑まれるくらいどうってことなかったの
かも)
 それならばむしろ、その身に障るのは、人の毒気なのではないでしょうか。
 佐助はそろそろと腕を外します。
 けれど血の滲む木葉斑にひしとしがみついたまま、離れないのは小さな影の方でした。
「あ…えっと、」
 何と呼びかけたら良いのかも分からずに、佐助は口ごもりました。
 見下ろす頭は、佐助の胸の辺りに顔を埋めています。
 小雨に打たせるがまま濡れて艶がかった髪(茶色がかった鬣)から覗くのは、古木のような、鹿のそれに似た(ああ、確かに先刻もあの 鬣の間にあった)――角。
 佐助の忍び装束を握り締める白い手には、甲から袖の下まで続く鱗。
 いつもよりも異形の名残りを残しているようで、けれどその身はまるで小さな人の子でしかないように震えています。
――大丈夫?」
 問いながら自分で滑稽だと思わずにはいられずに、それでも他の言葉は出てこなくて、せめて少しでも雨が当たらないようにと佐助は覆 いかぶさるように上半身を傾げました。
 膝の上の子どもは、濡れて色濃い、見覚えの無い着物を纏っています。
 水を含んで重たげな絹を飾るのはその身の鱗に似た薄片、それが、シャラリと鳴って。
 見上げた顔の、左目は光るような金色に色を変え、その下の頬から鱗が首筋に襟の下まで続いていました。

――竜の目と竜の鱗と、けれど濡れた目と笑う唇は、他の誰でもない、佐助の。

「当然だろ、人間」
 強がる声に体の震えも従って、止んだようでした。
「穢れなんざ…人間どもがそう呼んでるだけで、ただ、お前らの血が少し熱いだけだ。それだけだ」
 言い切って、きゅっと唇を噛む様子に佐助は苦笑します。
「ちょっと熱くて、侵されるだけ?」
 子どもは痛みを覚えたように眉をひそめうつむいてしまいました。
「嘘は駄目だよ」
 言えば、ちらりと見上げる切れ長の目に咎められます。
「うん、まあ、俺が言うのも難だけど――これっきりなんだし」
「…これきりだからだ」
 竜は川から流れの源に帰るのだと竜のしもべが言い、佐助はこれ以上この子どもを苦しめたくなく。
 河童ちゃんは河童ちゃんでは無くなって。
(これで、最後だから)
「嘘じゃない笑顔が良いって言ったら、贅沢?」
 せめて嘘じゃない泣き顔でも良いから。
――嘘じゃねえよ」
 うつむいたまま、ぽつりと竜の子は言いました。
「“穢れ”なんてお前達が勝手に作った言葉だ。勝手に自分を汚れてる事にして勝手に離れて行きやがって、遠くなる度にお前らの血は俺 たちに熱くなる……!Goddam!」
 天を覆う雲が明るい灰色に薄まり始め、雨の粒は霧のように細かに大気を冷たく濡らしています。
 だから佐助の胸元に落ちる熱い大きな雫は、雨ではなくて。
(本当は泣かせたくもないけど)
 ふと、見下ろす髪に絡まる紐を見つけて、佐助は目を細めました。
 そうっとその紐に触れると、切れて引っかかっていただけのそれは、するりと解けて、地面の泥の上に落ちて。
 パタリ、と落ちて倒れたのは、帆立の稚貝。
 海の貝。
「…前に一度だけ、人の子があそこに来た。『また』と言って、二度と来なかった」
 血まみれの装束を、強く強く握り締めて、竜の子は顔を上げました。
「熱いだけだ、こんなの――お前らの方が余程、脆い」
 金色の左目に雫をためて。

――洞になった右目から、溜めることの出来ない雫を、溢して。

 子どものきめ細かな肌が、その洞の周りだけ老いたように皺を作って、痛々しい傷跡を晒しています。
 佐助は思わず指をのばしかけ、躊躇って手に握りこみました。
 金色の目が静かに表情を消しました。
 それが、深い孤独を隠すこの子どもの癖だと分かってしまっていたから、どうしてもその涙を拭いたくて。
 忍びの手よりは罪の軽そうな、唇を、洞の縁に寄せました。
 左目が瞬いて、不思議そうに見開かれました。
「それでも、あんたを傷つけるのは――俺が怖いよ」
 ごめんね?と。それは初めて会った日から、何度目の謝罪だったでしょうか。
「謝るな、馬鹿」
「うん。ごめん」
「あやまるな…」
 鱗に守られた細い腕が柿の実色の髪の垂れる首にすがり付いて、肩に埋められた声は震えています。
 腕を持ち上げて、それでも抱きしめられずに。
 瞑目した目蓋の裏がひどく熱くて、目が溶けそうだと、佐助は淡く笑いました。












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