猿の佐助と河童ちゃんG






 毒。
 屠られた者の血肉、屠ったその手、人間のあらゆる穢れ。
 川に捨て置かれたままの死体。
 今日は何人殺したのでしょう。
 この一年でどれだけの命を奪ってきたのでしょう。この生涯で、どれだけの命を奪っていくことになるのでしょう。

(それが毒だってえなら、俺は毒の塊だ)

 雨が佐助の体を打ちます。
 冷たい雫が染み込んで、熱い血と交じり、つま先から流れ落ちていきます。

 聖域。
 立ち入らざるべき場所。
 藤乃川の上流。

(その禁域には誰がいる?)

『里から来たなら神社の前を通ったろう』

 佐助の目に、森に溝を作る細い川と、立ち並ぶ鳥居が小さく、けれどはっきりと映りました。
「…駄目だよ…」
 佐助は力なく呟きました。
 烏は、藤乃川の上流を目指しています。
「…――そっちに行っちゃあ、駄目だって…」
 そこに佐助を助けてくれる誰かがいることを、知っているかのようです。

   *

 青い鬼火が――そもそもこれは鬼火なのでしょうか、揺らめきながら顔の前に寄ってきます。
 子どもの周りに浮かんでいた、不可思議な光。
 五十日前にも見たその灯を、佐助はぼんやりと眺めていました。
 鳥が佐助を此処に下ろして、ふわり、ふわりと飛ぶ光が佐助を見つけて。
 もうすぐあの子がやってくるだろうと、佐助は動かぬ体を痛みに震わせながら、ため息をつきます。
(こんな光を纏わせた、人間の子どもが、いる筈無かったね)
 暗い森の中で雨の飛礫は佐助を打つことなく、その背をもたれさせた木の幹を伝って地面に小川を作っていました。
 この雨水が、佐助の血が混ざったまま(俺が浴びた返り血も、混ざったまま)藤乃川に流れていくのでしょう。
「毒、ねえ…」
 子どもの白い肌に浮かぶ痣が目に浮かんで、佐助は痛みを覚えたように瞑目しました。
――パシャッ。
 水音にうっすらと目を開けば、靴も履かない白い足が、雨水の流れを踏んでいます。
「…猿…っこの馬鹿!」
 白い衣に包まれた膝が泥水も構わずに地面について、一つ目の子どもは佐助を覗き込みました。
「……はは、…」
「笑ってんじゃねえよ、何だってお前はいつも怪我してばっかなんだ…!」
 左目に雫をためて、目元を赤く染めて。
(ああ、前もそう、泣きそうだったね)
 瞳を潤ませたまま血を拭ってくれた顔を、夢うつつに見ていたのを、佐助は覚えていました。
「待ってろ、今傷を塞いで…」
 けれど、その白い袖口からのぞく腕の薄青い鱗はこんなに濁って欠けていたでしょうか。肌に浮かぶ痣は、 初めからこんなにも色濃かったでしょうか。
 佐助の頬に近づいた柔らかな指が、そこに触れた瞬間、悪寒が走るかのように小さく震えます。
 傷付けられず針も刺されず、けれど指先から毒がじわりと染みる感触を思って、佐助は眉根を険しく寄せました。
 けれどそれが自分の体を侵していると知ってか知らずか、子どもの手は血塗れた着物を縋るように握り締め―― 体を近づけて必死に傷口を探しているのです。
「脚…腕…Shit!また腹かよ…!」
「良いよ。このままで」
「What!?」
 見開く左目に、優しく笑いかけました。
「って言うか、触っちゃ駄目」
「何言って…」
「毒なんでしょ?人間の穢れが」
 赤い唇の奥で、ヒュッと空気の引き攣る音がします。
「人間が人間を傷つけて流れる血とか、怨みながら死んでったその肉とか」
 小さな顎が、戦慄いて。
「…俺、そういうのに塗れてるから。戦で――人を、斬ってきたから」
 白い顔が、さらに白くなっていきました。
――昔の、病気の痕って言ってたけど…それでも俺に触ってから酷くなったんじゃないの、」
 あの痣も、鱗も。
 痛みも冷たく麻痺した中で、佐助の口だけが静かに言葉を紡ぎました。
「…そ、んなはず、ない」
 ぎゅっと、迷彩染めの胸元を握る小さな手が、力を強めます。
「川の水量が減ったってのも――そのせいか」
「違う、」
「下流の、神社に、祭られてるのは」
「違う…違う、違う!」
 子どもは強く頭を振りました。
 ボロリ、とその左目から大粒の雫が零れて、睫の先から佐助の膝に落ちていきます。
 動けない佐助の手は(血に塗れた手じゃあ)その目を拭うこともできません。
「お前は…、猿だって、言ったじゃねえか!」
 ボロボロと次から次へと落ちる涙で、子どもの大きな目は溶けてしまいそうに見えました。
「人間じゃないから…だから…」
 だから、また会える、と。
 何処かの枝で烏が、小さくなき声を上げました。
 雨粒が森の屋根を打つ音がはるかに高い頭上から落ちてきます。
 日のささない森の中は暗く透明な闇を幾重にも重ねて、そこに浮かぶ青い灯だけが、熱の無い、 優しい光を投げかけていました。
 光は流れる雨水の川面にもきらきらと煌めきます。
 遠い川辺の陽だまりを思って、佐助はそっと微笑みました。
「うん…そうだったね」
 細い腕がごしごしと目元を拭うのを、目を細めて見つめます。
「ごめんね、意地悪言って」
「……っ、」
 あんまり擦っちゃ駄目だよ?
 そう言って笑いかけると、子どもは赤い目で佐助を見上げました。
「……」
「…あのね、実は麓で狼に襲われちゃってさ」
「……」
「それでこんなに怪我してるんだ」
「……おおかみ?」
「そう。猿もね、油断すると肉食獣に食われちゃうの」
「………猿、」
「酷い怪我だからまた血止めの薬と帯布、分けてもらえる?」
 お願いしますよ、河童ちゃん。
 血の気の失せた顔で、それでもへらりと笑う佐助に、子どもはパッと着物を手放し立ち上がりました。
――分かった。すぐ戻る。動くなよ!」
「動きたくても動けませんって」
 ずるずるともたれ掛かっていた木の幹から地面ずり落ちる猿を背に、河童ちゃんは踵を返して駆けていきます。
 そうして子どもを遠ざけて、佐助は泣きそうに眉を寄せた笑いを、顔に浮かべたのでした。












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