猿の佐助と河童ちゃんF






 雨脚はどんどん強まってきました。
 隣の人間も定かに見えぬほどの雨の帳の中にあって、国境の戦いは混迷をきたしています。
「佐助!北条軍は引いたか!?」
「まだだよ旦那!佐竹も甲斐に踏み込んでる!」
 あれから十日。
 信玄の読みどおり国境で農民達が一揆を起こし、それを鎮圧するため佐竹の軍勢が来ました。そこに北条が農民達に 味方するかのような形で奥州に攻め込みます。
 ただ、戦ううちにその戦場がずれ込み、甲斐の国の国境を睨んでいた真田軍が動かざるを得なくなったのは―― この、豪雨のためでした。
 農民達は自分達の知り尽くした土地での泥合戦を有利と見込んで、雨を読んだ上で始めた戦いです。
 これに足を取られたのは佐竹も北条も同じこと。
 足どころか視界を奪われ、混戦の末――(確信の上、って可能性もあるけどな)戦場は甲斐の方へと 移って来たのでした。
(しっかしここは…)
 雨の中でも他の兵よりは視界の利く佐助は、累々と重なる死者に眉をひそめます。
 ひそめながらも、手に持つ大きな手裏剣がまた、赤い血飛沫を生み出しました。
 佐助自身も視界を奪われた中で手傷を負い、体からは刻々と血が流れ出ています。
 真田軍も先頭はすでに奥州の領地へ踏み込んでいました。
 国境の、流れを越えています。
 その流れは藤乃と呼ばれる細い川です。
 その川が倒れた兵の赤い血と肉片にまみれて、豪雨のために濁って走る様は、川が苦しんでいるかのようでした。
 混戦状態の佐竹と北条、そして国境を守ろうとする武田の赤い幟。
「押し返すぞ!奮え真田軍!!」
 その時、別の方向――ちょうど藤乃川の川上から、朗々とした音が響いてきました。
 見れば山伏装束の男でしょうか、ほら貝を吹き鳴らしています。
 しかし、その後ろにいる影に、佐助はハッとしました。
 奥州の草、黒脛巾です。
「旦那!あれは――
「佐竹の守よ!」
 佐助の声を打ち消すかのように、山伏が声を張り上げました。
「北条軍、武田軍よ!この川は奥州の境、しかし貴殿らは落とす城も無い川を取り合うおつもりか!?この雨のなか  勝敗も決せられぬまま人命を浪費したくなくば、この藤乃川を境と認め、それぞれ早々に兵を引き上げられよ!」
 戦場を切り裂き響く声に、誰もが動きを止めていました。
「貴様は何物だ!」
 叫んだのは北条の武将です。
「一介の修験者!しかし、この地で無為に血を流すことは見捨てておけませぬ!」
 カッと雷が光りました。
 山伏は笠をかぶっており、顔も見えません。
 答えたのは真田幸村でした。
「良かろう!武田軍はこの川より引く!もとより国境が荒らされなくばこちらに戦いの意は無い!  ただし、この川を渡ってくる兵があれば……この真田幸村、容赦はせぬぞ!」
 この言葉に、戦場は収束するかに見えました。
 佐竹の兵たちは我先にと川の向こうへ逃げ帰り、北条軍も川下の方へと引き始めます。
 しかし佐助は手裏剣を隙無く構えたまま、幸村のそばに控えていました。
(一介の山伏が、奥州の草を従えるか…?)
 しかし、山伏と後ろの影はあくまで動く様子はありません。
「佐助、北条軍の撤退を見届けたら、お前はお館様の下に飛んでくれるか」
 見下ろして、幸村はハッとします。
「…手傷を負ったか」
「ちょっとね。雨に視界を塞がれて不覚を取りました」
 お館様に殴ってもらいますかねえ、とへらりと笑い、佐助は口元に手をやりました。
 ピイイイイィ――――……
 口笛が響きます。
「怪我を塞いでゆけよ。無理はするな」
「はいはいっと…?」
 ふと、空気に稲妻が走ったように感じて、忍は振り向きました。
 あの山伏が、こちらに顔を向けています。
 笠の下からの刺すような視線。
 それに気づいたときには、修験者は佐助の方へと距離を詰めていました。
「某らに何かござるか?」
 幸村もいぶかしげに山伏を見ます。
「…今の口笛…」
――は?俺?」
 手裏剣を構えなおして、佐助は山伏と対峙しました。
 近くで見ると、先ほどの大音声の主とは思い難いほどの細身の男です。
「四十日前、同じ音を聞きました」
「…同じ音がどうかした?」
 じり、と佐助の足が地面を擦りました。
 山伏が忍の目を睨み上げ細面が険しい色に変わります。
「貴様――川の上流で何をしていた」
「何って――…!」
 山伏の後ろから黒い影が飛び出しました。
「佐助!」
「旦那!離れるんだ!黒脛巾は――!?」
 しかし、黒い布の下から現れた毛並みに、佐助は目を見開きます。
 口に並ぶ牙、茶色い毛並みの四本足。
(狼!?)
 襲い掛かるその一頭の首に手裏剣の刃を走らせますが、横から現れたもう一頭が、忍のわき腹に歯を立てました。
 さらに二頭が腕と脚に食いつきます。
「グアッ!!」
 ぬかるんだ地面に前足で縫い付けられ、佐助は歯を食いしばって呻きました。
「もう一度お聞きします。四十日前、貴方は藤乃川の上流にいましたね?」
「何の…話だか…」
「あそこは汚れた人間が――ましてや」
 笠から垂れる雨雫の下で、山伏の目がすうっと冷たく細まります。
「血にまみれた忍が立ち入って良い場所ではないのです」
 ヒュン、と雨を払う音が、佐助の耳に届きました。
「ウオオオオオォ!!!」
 雄たけびが轟き、真っ赤な腕の繰る槍が、山伏のいた場所を切り裂きます。
「旦那…!」
「佐助!立てェ!!」
 二本槍が狼を払いのけ、忍は何とか飛び起きました。食いちぎられかかった脚と脇腹が痛みを叫ぶようです。
 四匹の狼は山伏の後ろに下がり主人とともに真田主従を睨みつけています。
「我らはそなたの調停を受け入れ、兵を引いた!それが今、何を理由に某の忍を襲うか!」
「…武田軍」
 山伏は静かに怒気を纏ったまま、幸村の赤い覇気を見返しました。
「その忍は聖域を侵し毒を持ち込んだのです」
「毒…!?」
「屠られた者の血肉、屠ったその手、人間のあらゆる穢れ――それが武田の差し金であるなら、我らはこれを  甲斐の敵意と見なしますよ」
 まず、そこの忍には死んでいただく。
 狼達が前に出て佐助に照準を定めました。
 四肢がぬかるんだ大地を蹴る、その瞬間。
――バサリ。
 雨を切って大きな翼が揺れました。
――!」
 佐助の体が宙に浮きます。
「佐助!そのまま逃げよ!!」
「旦那…!」
 そんな訳にいくか、佐助はそう叫び返そうとしましたが、狼達は佐助を追うばかりで幸村のほうへは 向かっていません。
(引き付けるが得策か)
「旦那も上手く逃げてくれよ!?」
 叫び返して、もっと高く上れと黒い鳥に指示します。
 佐助の体から流れる血を追う様に、狼達が地上を駆けているのが見えました。
 あの修験者は腕が立つのか。
 しかし狼さえこちらに付いて来るならば、幸村にかなう人間などそうはいないはずです。
 霞む視界を叱咤して右腕だけは鎖烏の足に固定します。

『その忍は聖域を侵し毒を持ち込んだのです』

――まさか)
 そうして佐助は眼下に広がる戦場の血模様に、力なく瞑目したのでした。












●●G