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猿の佐助と河童ちゃんE 「時に、奥州の国境の件だがな」 武田信玄が切り出した話に、佐助がひやりと汗をかいたのは、サツキをしとしと雨が濡らす頃のことでした。 六月を迎える前に上田城に戻り、真田幸村の供で躑躅が崎にやって来て、大事な話はあらかた終わり、 赤い武者姿の幸村はそろそろお館様と殴り合いがしたくてうずうずしている様子です。 「はは、」 とかしこまって面を伏せている佐助に、赤い鬣の大虎は鷹揚に頷いて見せます。 「藤乃川のことは聞いておる。その下流、他の川と合流した先の村で近々 佐助は胸のうちだけではたと目を見開きました。 「多木崎川にございますか」 「うむ。あの辺りはまだ佐竹の領地……伊達の小倅に煽られて、政が乱れておるとの報告じゃ」 奥州では、伊達家の家督が若き伊達藤次郎政宗に継がれ、諸侯をまとめるのに目下北の地での戦を 繰り広げています。 何を隠そう佐助の先日の奥州偵察も、この伊達の当主について調べるのが第一の命だったのですが。 (城までは行けたんだけどね〜。あの黒い連中、…) 草の者の格好としては至って標準的な黒ずくめのその姿を、苦々しく思い出します。すると信玄は軽く笑い声を 上げました。 「何じゃ佐助、気にしておるか!」 「いいえ」 チラリと視線を上げて、佐助は取り澄ました声で答えます。 「相手の手の内は見ましたが、こちらは一つも明かしていませんので」 二度目はありませんよ。 と、そう答えなければ忍の命などないも同然と思っている佐助の耳に、飛び込んだのは真田幸村の声でした。 「まあ、佐助も人間でありますからな」 思わず、息を呑みます。 「失敗することもございましょう」 「旦那…」 背を低くしたまま見上げる部下に、幸村はきょとんとした顔をしました。 「何をしておるのだ佐助。いい加減お館様に顔を隠すのは止めぬか」 これにか呵呵と笑ったのは信玄です。 「そうじゃな。顔を上げい!佐助!!」 「ハイハイ…」 別に普段からそう畏まった上下関係でもありませんので、佐助はあっさりと背筋を伸ばしました。 しかし、それはあくまでも佐助が草の者であるために、武人ゆえの主従関係から少し逸脱しているだけだと、 そう思っているのですが。 ( “忍”は人ではないと、自分も周りも認める中で、いとも簡単に。 「人間だから失敗も認めよう、か。良い良い、主らはそれで良い…!」 ますます笑う信玄に、幸村は真面目な顔を崩しません。 「はっ。人間には慢心が付物。慢心が失敗の元」 ゆえに一つ、お館様じきじきに殴ってやってくだされ。 「なに言ってんのこの人オ!?」 ザアッと青ざめて叫ぶ忍の隣で、真田幸村はきらきらした目をして、お館様しか見ていないようでした。 * 「つまり、佐竹の執政が乱れて、一揆が起こると…」 お茶を入れ団子を出して事をうやむやにし、ようやく佐助は本題に入りました。 「そこに伊達か、北条が付け込む」 北から伊達が来るなら、一揆に兵を払った佐竹の頭をつかんで終わるでしょう。 しかし北条が来れば戦場となるのは正に多木崎川。これは武田の領地のすぐ脇です。 「北条に動きがあった場合は国境に兵を割く。少数でよい。が、幸村が立って睨みを効かせよ」 「ははっ!」 幸村が勢いよく床に伏し、頭で茶色の尻尾が跳ね上がりました。 それを見やってから、信玄はフム、と顎を撫でます。 「 「はい」 「如何様なものであったか?」 「…はあ」 跳ね上がった心の臓を押さえ、佐助は顔色も変えずに首を傾げて見せます。 何と答えたものでしょう。 水晶のように透き通った薄青の鱗と鰓、月のような白の肌、子どもらしくふっくらとした赤い唇、 長い睫と理知的な瞳、柔らかい髪。 (そう言えばさっき新しいお小姓さんを見かけたなあ) 信玄の趣味を思い出し、そのまま答えたら『連れて来い』などと言われかねないと思うと、いろんな意味で ゾッとします。 「…何か、鱗と鰓がありましたね」 あとはまあ、普通の子どもみたいで…。と言葉を濁して答えました。 (嘘じゃねーしな) ほほう、と信玄と幸村はそれぞれに感嘆の声を上げます。 「頭に皿と背に甲羅では無いのか」 幸村はよく言われる河童の姿を挙げ、信玄も首を傾げました。 「知りませんけど。河童にも色々いるんじゃないですか?」 (さっさと終われ、この話題) 佐助は心の中で祈るように手を擦り合わせますが、信玄はううむ、と腕を組んで唸ります。 「多木崎川流域の一揆だが」 「はい」 「…この一月で川の流量が減り、今年の多木崎の田畑の出来が危ういというのも一因であるらしい」 (……!) 佐助は僅かに跳ねた指を握って押さえ、信玄を見つめました。 「その支流である藤乃の河童のせいかは分からんが…ふむ」 「しかし河童なるもの、己の住処を守ることはあれ害を為す事がありましょうか」 幸村も大真面目に腕を組んで考えています。 (そうだよなあ、むしろ、天災で川の水量が減ってるってんなら) 水妖の身の方が心配というものでしょう。 「…偵察行って来ます?」 「河童か?」 「いえ、佐竹と北条」 しかし、ついでに藤乃川を見てこれれば、と佐助はそれは口にせず信玄を見ました。 信玄は首を振ります。 「ならぬ。…いや、それは部下に任せるが良い。お前は戦忍じゃ。 「は、」 重々しい声に、忍の佐助は畏まって頭を下げたのでした。 |