|
猿の佐助と河童ちゃんD ハア、と軽いため息が、五月の上田城の庭に響きました。 「どうした佐助。重苦しい息などついて」 腹でも下したか?とは、この上田城を武田信玄に託された若き武者、真田幸村の言葉でした。 「べっつにー、おかげ様で傷もすっかり治りましたし」 縁側でお茶をすすりながら、幸村の分も用意した湯飲みを差し出します。 「ではなんだ」 きりりとした眉も動かさず、幸村は真直ぐに佐助を見ました。戦もないために、後ろだけ尾のように伸ばした 茶色い髪にも赤鉢巻はつけず、深い落ち着いた紅の着物をまとった幸村は 「…忙しくなりそうだなあって」 対して怪我も治った佐助には、休んでいた分の仕事が山積みでした。 「不満か」 「イイエ。トンデモナイ」 そうか、と頷く若い主人の顔は真面目そのもので、実際は不満いっぱいな佐助の声に気づいた様子もありません。 実際、面倒くさそうな顔をしながらも仕事がなければ何をして良いか分からない忍の佐助です。そのせいで普段から 買出しだの飯の仕度だのやらずとも良い仕事にまで手を出してしまい、すでに幸村も忍隊の草たちもそれを 猿飛佐助が仕事と思っているのですから、まあ仕方のないことではありました。 が、今の佐助には仕事以外に、大事な大事な約束があるのです。 (せめて明日からのお仕事が、さあ) 「…北の方なら良かったのに」 ぼそり、と思いのほか低い声で、佐助の声は響きました。 * 一月前。 鳥の翼で数刻も飛びまわった後、佐助は河童ちゃんを川のそばへ降ろしました。 もっともっととせがんでいた河童ちゃんでしたが、流石に疲れたようで、ごろりと草の上に寝転がります。 佐助は立ったままその姿を覗き込んでいて、河童ちゃんは上から注ぐ光にか、柿の実色の猿にか、目を細めました。 「行くんだろ?」 「行きますよ」 「じゃあ見ててやるから、飛んでいけ」 「…うん」 佐助が再び烏につかまって上空から見下ろすと、河童ちゃんがまだ仰向けに寝転がっているのが見えました。 河童ちゃんはにい、と唇を吊り上げて、応えます。 それから、烏は武蔵の方へ向かって飛び、迂回して甲斐の国へと嘴を向けたのでした。 (…に、しても、河童ってああいうもんだったんだなあ) ぼんやりと水妖の姿を思い浮かべれば、月か雪かという白い肌に水のように澄んだ薄青い鱗、同じように薄青い 腰元の鰓。 皿も甲羅も川底に置いて来たとうそぶく、悪戯っぽい顔。 そのくせ人間の話に輝かせる顔は幼くて、悲しみを隠す瞳は深い色でした。 いったい何百年生きているのでしょう(だとしたら何百年一人でいたんだろう、尋ねてくる人間はいないでもない 様子だったけど)。 隻眼は病気のためと言ってはいましたが、けれど。 (病気って言うなら、それこそ) あの鱗と鰓が奇病か何かで、夜が来るたびに川の下を泳いで、何処か屋根のある家に帰っていったのかもしれない。 その考えも捨てるべきではないと、佐助は眉をひそめて考え込みます。 (あの子が、もし、名高い武家か公家流れの子どもで) 病を患っても殺せずに、人の来ない場所に住まわされているのだとしたら。 白絹の水干、上等で実は少し驚いたあの茶碗、子どもながらに威厳を持った言葉遣い。 どうしようね、納得いっちゃうよ。 ハア、と冷や汗をかきつつ目を開けば、そこにまだ己の主人が立っていて、佐助はぱちくりと瞬きをしました。 「あれ?まだいたの旦 「このうつけ者がああ!!」 「おわァ!?」 襲い来る鉄拳を避けて「何すんだよ!」と青ざめつつも叫べば、若き武人は憤懣やるかた無しとばかりに眉間に しわを寄せ、拳を握り締めています。 「仮にも武田に仕える忍の者が!越後のくの一にうつつを抜かし惚けるとは何たる醜態!恥を知れ!!」 どうやら幸村は、自分の忍が上杉謙信にに仕える女忍を思っているのだと勘違いをした様子です。 確かにかすがは気になるけれど、とは佐助も思います。里抜けしちゃって心配だなあとか、あの胸は見事だなあとか。 「破廉恥である!」 「ちょっ違!」 再び襲い来る拳に飛び上がり、佐助は庭へと走り出ました。 「ちょっと考え事してただけでしょーが!大体かすがは関係ありません!!」 「北の方が良いと言ったではないか!」 「うッ」 聞いてやがったか。 命を賭して仕える主人に内心舌打ちし、忍はくるりと背を向けます。 「何処へ行く、佐助!」 しかしここで本当の事を言う訳にはいきません。 国境の川に住む妖に助けられた件については『まあ進軍しても踏み入れる必要のない場所ですし。せいぜい 祟りを被らないようにしましょうね』と報告を締めくくって、幸村も『助けられた恩、努々忘れずにな』と それだけで納得してしまいました。 しかしだからと言ってその水妖と友達になったのだともまた会う約束をしているのだとも、そのアヤカシが また可愛いんだこれが!とも話していないのです。 忍にだって内緒にしておきたいこともあるのですから。 「出張の準備です!前田領でしょ!?」 仕事の話を持ち出してうやむやにしてしまえと叫び返せば、幸村はあっさりと引き下がりました。 「うむ。出発前に二、三用があるので後で来い」 「三の屋の団子ならまかない所だよ」 「そうか」 ならば良い。 良いのかよ。 明後日よりさらに遠くを見る佐助の目に、庭の柿の木が映ります。 (ああ、そうか。秋になったら会いに行くって言っただけなのに) 今度、あの川に行ったなら。 悪戯っぽい笑顔をもう一度見せて欲しい。聞き取れない言葉の意味を教えて欲しい。あの子の話を聞かせて欲しい。 まず両腕で抱きしめても良いかなあ? もう会いたがっているのは自分の方なのだと、柿の実色の毛並みをかいて、猿は何とはなしに 苦笑を浮かべるのでした。 |