猿の佐助と河童ちゃん@






 昔々のことです。
 奥州国の境近くにある渓谷の奥深く、清い水が滾々と湧き出る泉がありました。
 泉の水は川となって森を抜け、人里へ流れ出て、人々の喉や田畑を潤します。
 その森の中を流れる川べりに、ある日、一人の男がやってきました。
 木の葉の影のような複雑な模様を、濃緑と葉色で染め抜いた奇妙な服。対して際立つ赤い髪。

 名を猿飛佐助といいます。

 佐助は境向こうの甲斐の国に仕える真田家の、その忍の者でした。
 奥州を調べるよう命じられた佐助は、普通の人間ならば上るも下るも一苦労ではすまない山間を、近道とばかりに 抜けてきたのです。
「こりゃ藤乃川の上流だね」
 川を見て佐助は呟きました。川下の里ではこの流れを藤乃川と呼んでいたのです。
 藤乃はそう大きな川ではありませんが、豊かな流れで地を潤し、やがて多木崎と呼ばれる太い流れへと繋がる 支流でありました。
「奥州に入ったか…順調順調♪」
 流れに突き出た大岩めがけて地面を蹴り、川を渡ろうとした、その時。
――ぱしゃん。
 佐助の目の端で何かが水を跳ね上げました。
 魚より大きな影が、水の下を揺らめきます。鳥でも獣でもありません。
 一瞬だけ見えたのは、子どもの腕のようでした。
 佐助は岩の上から近くに伸びた枝へと飛び移り、身を隠しました。
 人の足の入らぬ森、という情報でしたが。
(見られたか…?)
 大きな手裏剣を手にし息を潜めます。
――ザバン!
 先刻よりも大きく水が跳ね上がりました。
 きらきらと光る透明な雫がつくる帳の、その向こうに上半身を現したのはやはり、十に手がとどくかという頃の 子どものようです。
 しかし、その露な肌にうす青い模様があるのを見て、佐助は軽く目を見開きました。
 濡れた髪が纏わり付くうなじは白い肌ですが、腕の肘から先、肩甲骨から下にはり付いているのは。

(鱗?)

 と、子どもが振り返り、左目が真直ぐに佐助のいる場所を射抜きました。
「出て来い」
 高い声も疑いなく子どもの物です。
――Hey,出て来いっつってんだよ」
 確信に満ちた声に、佐助は諦めて地面に飛び降りました。こうなっては下手に逃がすわけにもいきません。
 対峙してみると、右目を髪に隠した子どもの顔は日に焼けておらず、長い睫毛が飾る左目に凛とした 光を帯びているのが分かります。錦をまとえば武家の姫で通るかもしれないなあ、と佐助は思いました。
「どーも、ええと…お嬢ちゃん?」
「だれがお嬢ちゃんだ」
「まあとりあえず河童ちゃんね」
「なんで河童だと思うか!」
 しかし結局のところ、忍の者に姿の美醜はあまり関係ないようです。
「河に童がいたら河童じゃん」
「…Shit!」
 子どもは岩の上に上がりました。
 佐助が川べりに近づいて見てみても、その細い腕や背にあるのはやはり鱗としか言いようがありません。
 脚も膝下には淡い青色の鱗があり、腰だけは白い薄布で隠されています。
 その薄布の巻かれた辺りからは、これも青く手のひらほどの大きさの、鰭か鰓のようなものが見えていました。
 正直なところ佐助も本物の妖しを見たことがあるわけではありませんが、どうにも目の前の子どもは ただの人の子ではないようです。
(やっぱ河童かな)
 決定。
 佐助は手裏剣をしまいました。獣と妖しは人にあらざる忍の系譜、みだりに殺すものではありません。
「それで河童ちゃんが何の用かな?」
 一瞬お嬢ちゃんと呼びたくなるような顔を顰めて、彼は佐助を睨みます。
(…こりゃあ、)
 武人の大将にもそうそう見られない、鮮烈な気迫。
「人間が、誰の許しを得て此処を通る」
 声が川の流れを打つかのように、風の羽も掴んで従わせるかのように、響き渡りました。
 佐助はそれをまともに受け止めて、それでも笑ってみせます。そうでなければ武田軍真田が忍隊の長は 勤められ無いというものです。
「えー、ここ河童ちゃんのお家?でも別に誰にも止められなかったし」
 その飄々とした答えを聞くと、河童ちゃんは威圧感を落とし、ぱちくりと瞬いて訝しげに眉をひそめました。
「お前…里から来たなら神社の前を通ったろう」
「えーとね、何ていうか…」
 確かに急峻な峰や鬱蒼とした木々に囲まれたこの沢まで来るには、里からの道を登るしかありません。
しかしそれはあくまでも常人の話です。
「俺、人間じゃないから」
 忍は人間ではないというのがその頃の世の認識で、忍の間での約束事でもありましたので、佐助はそう言って ヘラリと笑いました。
「人間じゃなければなんだ。猿か?」
「あ、そうそう、それ」
 河童ちゃんは佐助の赤い髪を見て冗談のつもりで言ったようですが、名前の端を言い当てられた佐助は にこにこしながら頷きます。
「Ah-han? 最近じゃァ猿も人に化けてみせるか」
「まあね」
 唇をクッと吊り上げて笑う河童ちゃんに、忍は笑顔を貼り付けたまま返しました。
「人間っぽく見えるかもしれないけどさ、猿だから。見なかったことにしてここ通してもらえる?」
 すると河童ちゃんはすうっと表情を消しました。
 太陽の光もかげり、森の中は一瞬薄暗くなります。
 佐助は心の中で首を傾げました。
(何だろなあ。本気で妖しなら川に引きずり込まれるところなんだろうけど)
 笑顔を引っ込めて答えを待っていると、河童ちゃんがぽつりと呟きました。
「…また、くるか?」
「え」
「これるか?ここに。また」
 目蓋を伏せて、少しだけうつむいて。僅かに震える唇は、ふっくらとしてまだ幼げです。
――来れるよ」
 自分で思うよりも優しげな声で、佐助は答えました。
 河童ちゃんがゆっくりと顔を上げます。
「きっと来るから、俺みたいなのに会ったって誰にも言わないで黙っててくれる?」
 人間にも、妖しにも。
「……Okey」
「は?桶?」
「分かったッつったんだよ!」
 ザパン!
 河童ちゃんは叫ぶと、身を翻して川に飛び込みました。
「…河童ちゃーん?」
 呼んだ声が聞こえたのか、小さな頭がそうっと水面から出てきます。
「おい猿、お前も俺に会ったなんて誰にも言うんじゃねえぞ」
「はいはい」
 ひらひらと手を降って見せると、「約束だぞ!」と叫んで、今度こそ河童ちゃんは水にもぐってしまいました。
 しばらく待ってみても上がってこないので、川下まで泳いで行ったか、それともアヤカシだけに水に消えたかと 考えながら、ともかく佐助は踵を返します。
「約束、ねえ」
 人であれ怪しであれ口の利ける者がいるからには、必要もなく忍の姿を見せる訳にはいきません。
 僅かでも奥州内に情報が流れれば、甲斐の国の政が端を表すというもの。一方、国境に近い水場の住人については 上司に報告の必要があるわけで。
(会いにも来れないし、黙っててもあげられないかな)
 猿飛佐助は何よりもまず忍の者なのです。
 だから、見逃してくれた恩も、自分の主にも引けを取らない存在感も。本当は奇病でも患った子どもなのではないか、 とも思えるほどに、ただただ幼い表情も。
「…ごめんね?」
 自分が答えた声の優しさも、全て無かったことにして、忍はそこから消え去ったのでした。












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