はじめてでもない、蜂蜜の日。
八月の三日はハチミツの日らしいよ。
と言って政宗の婿が蜂蜜を氷にかけてくれたのは、一月ほど前のことだった。
奥州も溶けるような日射しに攻め込まれていた、七月のころ。
政宗は伸びた餅のようにぐったりと転がっていたものだが、忍びらしからぬ忍びと名高い政宗の婿は、実に忍びらしく暑さを知らぬ顔でいた。
政宗の婿は、甲斐武田軍の忍びの長だ。
名を、猿飛佐助という。
八月でさえないのに「ハチミツの日がね」などと言いながら蜂蜜を持ってきた婿を眺めて、政宗は(こいつ、疲れてんのか)と思ったものである。
ただでさえ暇ではないはずの忍び隊長を務めながら、たまの時間をつかまえてはこの奥州に通っているのだ。
だがその時疲れ切っていたのは暑さに弱い政宗の方で、佐助は涼しい顔のまま、小十郎のように(と言うとまた嫌な顔をされそうだが)政宗の世話を焼いてくれたりしていた。
――これでは嫁の沽券に関わる。
と、政宗は後で反省した。
なので昨日、妙な商人が「八月三日はハチミツプレイの日ですよ〜」などと売り歩いているのをすかさずつかまえて、とりあえず蜂蜜を用意したのだ。
緑の釉薬のかかった壷の中に、とろりとした金色が満たされているのを確認して、政宗は。
――これで勝った。
と拳を握りしめた。
ハチミツプレイとは何ぞや、という疑問はその時点でわきに退けられている。
問題は、あいかわらず通い婚状態の婿殿がいつ現れるか、の一点だ。
――決戦は八月三日。
明日である。
「上田に押し掛けてやるか…?」
独り言を壷に落として、口にすれば何やら名案に思えてきた。
城の奥に部屋がしつらえてあるとは言え、猿飛佐助にしてみればここはアウェイだ。どこにでもヘラヘラと潜り込める忍び、しかし上田城に行けばもっと遠慮なく過ごしていたりするかもしれない。俺のいないところで生意気な。
――そうだ、上田に行こう。
My favorite things!
意気揚々と障子を開ければ、そこには独眼竜を待ちわびていたような。
雷をはらんだ曇天が、広がっていた。
「筆頭!堤の補強にまわってたやつら、戻ってきやした!!」
「筆頭ォ!良直以下三人、今夜は川辺村についててやるそうっス!」
「政宗様!家臣団の家人もすべて城内に!」
「殿、補修中ばだった北の城壁がもはや――」
「筆頭!俺ら行って骨支えてきやすよ!」
Wait.と響く声が風に巻かれた広間に響く。
「北なら瓦礫も山の方だ、放っとけ」
たすき掛けした小袖袴の裾をしぼって、小十郎が差し出す手ぬぐいを頭にかけながら、政宗は背後に手を振った。
「明日からが忙しいんだからお前ら身体乾かして温めとけよ。Here,」
厨の女衆が運んできたのは飴湯の鍋と酒。
駆けずり回っていた男たちが、ホウと肩の荷を降ろしたように息をつく。
「呑んだら今日は休め。Break up!」
言い置いて政宗は踵を返した。手拭でワシャワシャと髪をかき回しながら、大またに歩く後ろを小十郎が着いてくる。
「政宗様」
「Shit,時期が悪いな。田圃がどうなってるかが心配だ」
「政宗様、」
「稲穂が倒れてなきゃいいが、あれで結構丈夫なもんだ。明日から兵を割いて被害の調べと田畑の手助け、人員の配置を」
「政宗様、貴方様も――」
重ねて呼ぶ声に足を止めれば、「恐れながら」と忠臣はひざまずいた。
「この後のことは小十郎に任せ、今夜はもう休息をとるべきかと愚考いたします」
低く噛み締めるように頭を垂れる。
――大袈裟な奴だ。
だが政宗はその可笑しさに、フッと肩の力が抜けるのを感じた。
それこそ嵐のように回っていた考えもつむじ風になって解け、クスリと笑みさえ浮かぶ。
「Okey Dokey,あとは明日からのことだけ、朝までに大筋決めりゃあ十分だから、お前も身体だけは休めとけよ」
「は、」
一礼する声は飽くまで硬い。
「じゃ、何かあったら寝所に――」
欠伸する政宗に、小十郎はそこで初めて首を振った。
「いえ、奥に参ります」
「あ?」
「――万が一、どうしても政宗様のお指図を請う必要がありましたらこの小十郎、奥に参ります」
遠まわしに奥の間に行くよう勧める言葉は、妙に頑なで、そのくせ眉間には苦悶するような皺が寄っている。
行かせたいのか、行かせたくないのか。
明日からのことばかりに気を取られていた政宗の脳内は、一瞬無風になって、こくんと幼く頭を頷かせた。
「All right,奥にいる」
奥、というのはこの城で、本来政宗の正室や側室がいるべき場所である。
だがこの一年以上、奥は政宗の嫁ではなく、政宗の婿が――それもその男がたまに来たときしか使われていない。
もし婿殿が来ているなら、小十郎の眉間に皺を刻むにはぴったりな理由だ。
――だがこの嵐の中、やつが来ているはずが無いではないか。
そもそも来るなどとは聞いていない。
――そりゃあ、確かに、元よりいつでも必ず予告してから来るほど律儀ではなくて、最近では『仕事で近くまで来たから』だの『たまたま暇になったから』だのと言ってはこちらの都合もお構いなしにほいほいと現れ、何か食いものでも支度してきてやると言うのに『それより此処にいてよ』などと勝手なことをほざく始末。あれが亭主関白というものなのかは判じかねるが、忍びの身である佐助に遠慮がなくなってきたのが嬉しくないと言ったら嘘になる。
遠慮がなくなった、のであれば、いい。
――この嵐の中やって来るのだとすれば、それはこちらの都合に遠慮しなかった、その結果ではなく。
「……ただの馬鹿だろ」
「そりゃまたご挨拶だね」
部屋の灯りも隠さずに政宗を迎えた旦那様は、いつものようにへらりと笑って隣の藁座をポンポンと叩いた。
暗い中にひっそりと炎の橙。
轟々と部屋を取り巻く風の音も、どこか遠く聞こえた。
「おつかれさま」
「…ん」
導かれるままに腰を下ろして、隣の影にハッとする。
緑斑の、いつもの忍び装束のまま。
「あんた、濡れっぱなしじゃねえか」
「拭き物もらったから結構乾いてるよ」
「髪だけの話じゃねえ。Ah,風呂焚いてやりてえとこだが」
「一緒に入る?」
「……っあほ!」
一緒に入って背中を流す、で済むはずがないことは、流石に政宗も理解しつつある。
――きっとあちこち撫でられたり口づけられたりするに違いないのだ。
長持から取り出した夜着を勢いあまって投げつけると、佐助は濡れたままの忍び装束の肩を揺らして笑った。
「冗談だよ、今からじゃ火焚くのも大変でしょ?早くあんたも着替えな」
そう言って背を向ける。
忍びのくせに背中をさらし、政宗の着替えは見ない気遣い。けれど緑斑をさっさと脱ぎ捨てて夜着に着替える仕草は遠慮が無い。
――いつからこの男はこんな風だったろうか。
「釜番の人が盥に熱めのお湯くれたから」
「Ah?」
「早く、こっちこっち」
政宗はまだ単しか羽織っていないというのに、振り向いた佐助は袖にたすきまでかけている。
普段は政宗の『嫁として夫の世話を焼いてやるべし』という意思が勝っているのだが、元より身の回りのことは小姓や腹心が請け負っている殿様の政宗と、仕える方に慣れている忍びの佐助だ。
気づけば政宗は次の間に用意された腰掛に座って、佐助はその足元に跪く形。
――自然な流れすぎて流された。
「Wait,ちょっと待て」
「んー?」
「何しようってんだ、あんた」
「おつかれの嫁さんのおみ足を洗おうってんだよ」
冗談めかした声でそう言って湯気の立つ盥を引き寄せる、佐助の手はすでに政宗の右足首をつかんでいた。
Wait!と政宗はもう一度叫んだ。
「い、いい、そんなことするなっ」
「したっていいじゃん、ほら暴れないの」
逃げようとした左脚に単のすそが乱れるのを広がらぬように掴む。右足は枷で留められたように動かない。悔し紛れに政宗は、橙赤毛をギロリと容赦なく睨みつけた。
ひと睨みで周囲を黙らせる竜の独眼。
――しかしこう頬に血が上っていては、ただの照れ隠しとからかわれるかもしれない。
佐助はあはは、と誤魔化すように乾いた笑い声をあげて。
「うん、今そういう絶景見せられても困る」
「俺に分かる言語を話せ!」
実力行使とつぶやいて、佐助の手が政宗の足を盥につけた。
ちゃぷん、と、無理やり湯に入れられたにしては仄かな穏やかな音が響いて、親指の先からじわりと熱が染みこんでくる。
――思っていたより、足先も冷えていたらしい。
ホ…と息を吐いて、じりじりと座りなおす。
足をすっかり湯につけてしまうと、いつの間にか足首から解かれていた佐助の手が、両手で政宗の右足を包んだ。
ツボを押すように、揉むように、指の間にわずかについた泥まで落としていく。
「――この嵐、そんなにでかくないよ」
「What?」
「城の周りは被害目立ってるみたいだけど、米どころ直撃してはなさそうだったから」
「……あんた、まさか、そんな広範囲まで見て回ってくれたのか?」
「まあ、忍びのやることは何でもありですから」
少しは安心した?と暗がりに溶ける声が、優しくて甘い。
落ち着かずに座りなおせば今度は左足を捉えられた。
――いつから、こんな。
「……そうだな。小十郎たちには明日から激務だと言っておいたが、その話が本当なら」
「あ、片倉の旦那と言えばさ」
からりと声色を変えて、鳶茶の眼が政宗を見上げる。
「さっき突然来て空の瓶を投げ入れてったんだけど……鬼の形相で」
何アレ。
首を傾げるのに合わせて揺れる、橙赤毛に金の艶がのる。
「ああ、緑の瓶か?」
「緑だね。蜂蜜の匂いの」
謎の瓶だとでも思ったか、怪訝そうに寄せられた眉に、政宗はクスッと笑った。
「そりゃそうだろう、蜂蜜が入ってたんだから」
湯から掬い上げられた足は空気に一瞬ひやりとして、すぐに乾いて温い布に包まれる。
「…あの瓶いっぱいに?」
そんなに蜂蜜好きだったっけ、などと呟く男の方こそ普段は甘いものに興味もなさそうだ。
おそらくはたまたま蜂蜜売りにかち合って、食わせてやろうかと思っただけ。
それが、忍びの主のためではなく嫁のためだったことが――自分は嬉しかったのだ。
だから。
「あんたと蜂蜜playができるかと思って、買った」
「え」
鳶茶色がふたつ、まん丸になる。
その視線は水面に落ちて、横にそらされて、恐る恐るとばかりに政宗にもどり。
「――で、誰と蜂蜜ぷれいして無くなったの?」
「…………、」
ゴス、と政宗のつま先が忍びの喉を直撃した。
「グァ、ちょ、急所!」
「狙ったに決まってるだろ阿呆。…誰とも何も配った飴湯にすっかり使っちまったよ」
――会えると分かっていれば、少しは残しておいたのに。
喉を押さえる旦那様をちらりと見下ろして、政宗はムムムと眉を寄せる。
――食べ物で遊ぶ趣味は、ない、が。
「おい」
「はい?」
「つまり、蜂蜜でplayするGameをあんた以外としたら、浮気になるのか?」
佐助は今度はポカンとした顔で、政宗から目をそらさぬまま。
「…つまり政宗さんは、蜂蜜遊びがどんなものかも知らないのに、俺様の喉仏に攻撃を加えたわけ」
「Yes,直感で」
だんだんその鳶茶を、半月にしながら。
「うん、まあ、当たってるからすごいよね」
桶の水で手を清めつつ、うんうんと頷く。布を抱えて立ち上がり、政宗の後ろの暗がりに一歩、二歩。
「Ha,独眼竜は伊達じゃねぇ――、ッ!?」
腰掛ごと後ろに倒れた、と思いきや、肩を受けとめたのは長い腕のようだった。
――引き倒された。
その証拠に、覗き込む顔は確信犯の笑みである。
「瓶の縁に、ちょっとだけ残ってたから」
何が、と聞く必要も無い。その間も与えられない。
息を呑んで薄く開かれていた政宗の下唇を、ぴとり、となぞる感覚があった。
一瞬、何かと目を見張り――次に、花の香に気づき。
「……ぁ、」
たどる指先が唇の端をなでるころには、堪えがたいようなくすぐったさが心臓の鼓動にまで届く。
覆いかぶさる影を跳ね除けることも縋りつくことも忘れた、腕の先で、中指がぴくんと震えた。
口を吸うのではなく引いた蜂蜜を味見するように、佐助は政宗の下唇を軽く噛んで、そろりと舌先で舐め上げる。
忍びの指先は熱を感じさせないのに、舌先はひどく熱くて。
――それだけで。
風の音は一向に止む気配がない。
気がつけば腰掛からもすっかりずり落ちていた。
(あ、)
冷たい板張りの感触に我に返って、手をつけば、あっさりと佐助から離れる。
忍びは顔色ひとつ変えずに、「ね?」と小首を傾げて見せた。
「どこの誰とでもしていいってもんじゃ、ないだろ?」
「あ…ああ、」
口元に手の甲を当てたまま政宗はうなずくしかない。
そろりと舐めた下唇は、焼けるような甘さ。
ハチミツの。
「確かに瓶いっぱいあれば色々できたかも」
残念だったね、と瓶を覗く橙赤毛に、政宗は頷くことも首を振ることもできない。
「まさか、来てると、思わなかった」
絞りだした言葉は――我ながらCOOLじゃねえ、言い訳じみた、どうしてこんな。
――いつから。
なに言ってるの、と佐助はへらりと笑った。
「来るに決まってるじゃん。八月三日だよ?」
こんなに甘くて、染みこむほどに甘くて、これに慣れてしまったらもう戻れない。
「とにかく、あんたは、」
――もう、戻れなくなってしまった。
「……責任取れ!!」
「はいはい、如何様にでも」
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