はじめての願いごと。
 



 空には星が瞬いた。
 佐助は石になっていた。
 七月七日、七夕の夜。
――話はまず、半刻前にさかのぼる。




 庭に面した回廊の縁に座って、佐助は夜空を見上げていた。
「……涼しくなってよかったですね」
「ああ、――いい夜だ」
 隣では、と言っても人ひとり、否ふたりは割り込んで座れそうな距離を置いた、隣では、佐助の嫁が煙管をくゆらせていた。
 隻眼の左目は月の金色。それを鋭い刃のように細めて、右目は鍔眼帯の下に隠している。
 そうしてただ空を見上げていれば、鼻筋の通った品のある顔立ちだ。
 佐助とそろいの白い夜着に映える、白い顔。
 戦場では、笑みにつり上がるまなじりと狼のように牙の覗く口元が、ひどく凶悪で印象に強い。
 どこかちぐはぐで、恐ろしい迫力があって、食らいつくされそうなほどの色があった。
――戦場では。
 青い陣羽織の奥州筆頭。
 名を、伊達藤次郎政宗。
 繰り返すが、佐助の嫁である。



 何故。
 という疑問が当然だろう。
 佐助の答えは一つだ。
 何故かこうなりました。
 ぶつけられる疑問は疑問のままに、事実として事態をとらえ自分を落ち着かせよう、という腹である。
 要するに佐助だってこんな事になった経緯を未だに把握してはいないし、そんな佐助を慮ってか、詳しく説明しろと糾弾する人間もいないのだ。
 けれど、強いて佐助の心の声が叫んでいる『なぜ?』に、自問自答するならば。
――雨のせい、と言えるかもしれない。
 今夜の星空とはうってかわって、小雨の降る真昼のことだった。
 話はさらに、ひと月半前、皐月もくだりの梅雨のころまでさかのぼる。
 甲斐の国から忍び参った真田忍隊が長、猿飛佐助はその時、この青葉城の庭木の影に身を潜めていた。
 空を覆うのは銀灰色の薄綿のような雲だ。
――あの日、この城は雨と、奇妙なざわめきに包まれていた。
 はてな、と思いながら佐助は奥州筆頭、伊達政宗の姿を探す。
 城にもぐり込み、馬屋から勝手所から人々の些細な動きから情報を得るような、普通の諜報ではない。もちろんそれはそれとして、この国の一番上にいる人間と直に接触しようというのだ。
――奥州に限っては、これがすっかり常になってしまっている。
 その由は、ひとつは佐助が仕える虎の若子が、かの独眼竜の好敵手であるため。
 ひとつは豪放磊落にして緻密な策略を持つ、甲斐の虎の指令があるため。
――あるいは、独眼竜が独眼竜であるため。それが一番強い理由なのかもしれない。
 蒼い雷の光をうつす、金色の独眼。
『いつもの大道芸、見せてくれよ』
 戦場でまみえたことのある不敵で挑発的な、ぎらぎらした笑みを思い出しながら、木々を渡り。
 佐助は、己が目を疑った。
 庭に枝をのばした椎の木の影から、さやさやと柔らかく降りしきる雨の帳を透かして、見えた先。
――真白な。
 佐助は眉間をもんでみた。
――仕事のしすぎかなぁ。
 そんな言いわけを自分にしてみる。
――だってあれ、花嫁衣装じゃん。
 しかも、着てるの、独眼竜じゃん。



 雪のように白い。淡く光る雪原には白い水が流れ、白い鶴が舞い、白い花が咲き――
 その縫い取りはどう見ても夜襲の陣羽織でも死に装束でもなくて、花嫁衣装的な何かである。
 何か、と改めてぼかしてみたのは、着ているその人が独眼竜であることの方が、佐助にとってより動かしがたい事実だからだ。
 ほの暗い部屋の、庭に近い場所。真白い衣装が薄墨の背景に浮かび上がる。
 いつもの鮮やかな青でなく、ただただ白いその色に包まれて、独眼竜の顔は――色を落としたように、表情がない。
(仕事のしすぎかなぁ、俺)
 佐助はもう一度、胸でつぶやいた。
――だって、なんか、あの独眼竜が。
 ほわっとして見える。
(凶悪にぎらぎらしてんじゃなくて、こう、例えば…)
 月の光りか、雪の灯りか。
 小雨が霧のように煙っているから、そのせいかもしれない。
――雨のせい。きっとそうだ。
 佐助は鳶色の目を獣のように細めて、枝を蹴る。
――雨さえ降っていなければ。
(あの時、あの人のそばに行こうなんて、思わなかった)
 かもしれない。
 そんな幾つかの偶然によって佐助は今、伊達政宗と並んで星空を見上げ、とりあえず気候の話など試みているのである。
 昼の熱気がぬぐい去られた宵闇に、涼やかな風が吹いた。草に湿った土の匂いと、煙管や焚きしめられた香の薫りが運ばれてくる。
 独眼竜の薄い唇からただよう煙が、星を透かしてきらめいた。
――今夜は、七夕だ。
 七夕と言えばどこぞの恋人たちが、一年にただ一夜の逢瀬を許される日である。
 今夜、佐助が嫁の元に来たのは、ただの偶然だ。
――たぶん。
 だって、真田の旦那にそんな情緒あふれる発想があるはずがない。
 佐助は己をここに寄越した年若い主の、きりりと結んだ紅鉢巻、その下の大まじめな目を思い出す。
『お前も祝言を挙げた身だ。休日だけでも嫁御と過ごすがよいぞ』
 旦那。旦那が俺様の嫁とか呼んだのは、あんたの好敵手のことですか。
 とは、佐助は口にしなかった。
 挙式直後に試みて、『これが照れ隠しというやつか…!』などと目をむいて感心されたのは、まだ新しくも頭の痛い記憶である。
 甲斐にいる佐助の上司は大虎も若虎も、佐助が奥州と縁結んだことに疑問はないらしい。
 むしろ有無をいわさぬ推奨ぶりで、あの訳の分からない祝言の後も、佐助を独眼竜の婿として奥州に送り込んでくれるのである。
――お館さまには、何か企みがあるのかもしれない。
 そんな考えに至れば、抵抗ばかりもできなかった。
「どうした、間抜け面して」
「は!?」
 耳に飛び込んだ声は掠れてさらりと響く。
 思わずぐるん、と振り向けば、佐助の嫁ははたと目を見開き口元を押さえて。
「Sorry,…ぼんやりしてたから、何か考えてるのかと思っただけだ」
 と、まるでそこいらにいるただの若者のように、素直に詫びを口にした。
――謝られるとむしろ、本当に間抜け面をさらしてたんだろうな…と、感じてしまうのだが。
(で心底、悪気なく間抜け呼ばわりだったんだなあ…)
 佐助は痛むこめかみをぐりぐりと揉みほぐす。
「えーと、何でも、……疲れが出ただけですよ」
「そうか」
 へらりと笑って見せれば、竜は小さくうなずいた。
 その表情は、あの時と違ってわずかに堅い。
――でも、やっぱり戦場とは、違う。
 狂気に似た血の高揚、そんな迫力がそぎ落とされた、静かな雰囲気。
 以前は、書状の使いの前であっても、こんな顔はしなかった。
――この人の真は、あちらがわにあるのだと思っていたのに。
 白い夜着は星灯りだけの夜の色を吸い込んで、蒼い。
 顔と手は染まることなく白いように見えた。絹や真珠に似て、きめ細かく光をまとうようである。
 思い返せば、夜来たのは初めてだった。
 ドタバタ騒ぎで挙式した後、信玄の計らいで書状を携えて来たのは三度。ニ度は昼でもう一度は明け方、どちらも佐助はとんぼ返りだ。
――三度とも独眼竜は、『おかえり』の声で自分を迎えてくれたけど。
 白い手が煙管を盆におく様を、つい目で追ってしまう。刀を三本鷲掴みにする手とは思えない、品のある所作。
(静かだなぁ…)
 暇になるたび、仕事を増やすか奥州に行くかの二択をせまられていたこのひと月。
――もはや俺様に憩いはないのか、と絶望しかけていたのが。
(うーん、以外と、細かいこと気にしなければ)
 体だけは休まるかも、と頭のすみで思った瞬間、「Hey,」と声がかかって身を堅くする。
「はい」
「もう一杯」
 寄越せ、ではなく、いるか?とばかりに瓶子を傾けられる。
「すみません」
 いずまいを正し、杯を手にしてにじり寄ると、わずかに苦笑された。
「いつもの軽い態度はどうした?」
 口調は聞き慣れたそれ。――けれど声も、笑みも、覚えのない柔らかさだ。
「…竜の旦那こそ、大人しいじゃない。調子狂うよ」
 橙頭をかき回して、佐助も少しまた、笑って見せる。
 『おかえり』の声で迎え入れられた。
 あの日独眼竜がいた部屋の前、日の暮れた影絵の椎。
 正面から入る度胸などなくて、忍び参るように庭から入っていけば、あっさり嫁につかまった。
 えーとえーとこれはその、と何かしらの言い訳をしようと足掻く佐助を他所に、独眼竜は『おかえり。何だ、来るなら連絡くらいしろ』とのたまい佐助の首根っこをつかむようにして風呂場に放り込み、背中を流すか着替えさせてやるかという申し出に佐助はありったけの力で首を左右に振らねばならず、風呂から上がれば夕餉と酒が用意されていて――
 そっとしておいて欲しいという佐助の希望さえさておけば、まことに至れり尽くせりである。
 見張られている気配ひとつなく、独眼竜は不思議なほど大人しい。口にさせられるものにも怪しいところはないようだ。
――実は、端からさして警戒もしていない。
 何故、なんて問いを何度くりかえしても、要するに巻き込まれた佐助が諦めていて、不本意だったはずの独眼竜が受け入れているのだから、意味のないことだ。
――七夕だろう」
「そうだね」
「短冊、書いた」
「へえ」
 七夕の短冊は機織の名手である織姫に宛てて、芸事が上手くなるよう書くのだ、と佐助は昔聞き齧ったことを思い出す。正確には幸村が兄にそう教えてもらっていたのである。
「真田の旦那、字が下手だからさぁ。旦那の兄上が心配して」
「Oh,嫌いじゃねえぜ?あいつの字」
「そりゃよかった」
 結局『つよくなれますように』しか書かなかったからね、あの人。
 肩をすくめると、虎の若子の好敵手はクツクツと笑った。
 武芸一本槍の真田幸村と違って、伊達政宗の多趣多芸は有名だ。字は美しく、画才があり、歌にも秀でている。佐助には分からないが、そういう評判である。茶道に華道、唄に踊りに笛鼓、ついでに料理も好きだと本人に聞いたところだ。
――夕餉の素麺も酒の肴も奥州筆頭お手製だというから恐れ入る。
 武芸は言うまでもなく馬術弓術、戦に政まで指折り数えて、今更願うほどの事があっただろうかと佐助は首を傾げたくなった。
 肩の力を抜いて、へらりと笑って見せる。
「竜の旦那、なんて書いたの?」
 にじり寄っただけ距離がつまって、それでもふたりの間には、人ひとり分の空間があった。
 独眼竜は煙管をカチリと、戯れるように前歯で噛む。
 唇を離せば風に煙が流れた。
 煙は川のように一筋白く、佐助と竜の間を別つ。
 その流れを白い夜着の袖で押しやぶって、佐助の嫁は手をつき体を傾けた。
 金色の左目がニイとたわむ。
――…に、なってやろう、と」
 耳元で内緒話のように囁かれた言葉。
――一瞬目がくらんだのは、あまりに可愛らしい願いごとのせいではなく。
 ふわりと迫った薫り、ただの香の匂いではなく、香を焚き染めた竜の身の。
 短冊に書くには生々しすぎる欲に気づいて、佐助は石のように、沈黙した。



 空には星が瞬いた。
 七月七日、七夕の夜。
 青葉城の屋根にかかる笹の枝には、『良妻』の二文字だけがたなびいている。












10/08/16〜旧暦七夕