毎週毎週、水曜日にその人はやってくる。





「なぁんで俺が名店チョコレートの試食販売なんてやらなきゃなんないの…」
 げんなりとつぶやく橙色の頭に、銀髪男が隣のロッカーを開きながら歯を見せて笑った。
「なんでも何も担当だろ?試食係」
 緑のエプロンをつけ専用の帽子を被り、佐助は左眼帯の大男を恨めしげに見上げる。
 確かにこのスーパーマーケットの店員の中で、一番接客に向いており、通路を歩くおばちゃん方に『奥さんこれ美味しいよ〜 宇都宮の餃子!焼きたて!あ、レンジで温める時はラップ被せない方がパリッとね』などと笑顔を振りまきつつ喋くれるのは、 バイトの女の子でなければ佐助だけである。
 例えば銀髪に眼帯、体の大きい元親では、愛想を良くしても迫力がありすぎるのだ。それに彼は専ら魚介コーナーの カウンターの中でねじり鉢巻をつけ刺身をさばくのが仕事である。
 故に、
「チカちゃん代わってよ」
「無茶言うな」
 と答えるのは至極もっともなことだった。
「バイトの女の子も皆休みでかすがもいないしさあ…今日に限って」
 ぶつぶつと呟いてため息を吐く同僚に、元親は同情より呆れ色の濃い表情を浮かべた。
「いや今日だからじゃねえか。分かってんだろ?お前」
 2月の14日、いわゆるSt.ヴァレンタインデイ。
 欧米では男性が愛する女性に花を贈り、日本では女性が恋する男性にチョコレートを贈る、とにもかくにも恋人達の日である。
 つまり佐助は今日この日に如何にも何の予定もない独り身です!とエプロンに書いてあるような状態で、女性陣に チョコレートを勧めるような役目につきたくないのだ。
 しかし今日だからこそ、女の子達はこぞって休みを入れている。
「かすがなんかに代わってくれとか言ってみろ、八つ裂きもんだぞ」
「そこまで無謀じゃないよ。あいつ一昨日から休みとってるし…」
「製菓用チョコ店員割引で買い込んでたな」
「あれだけ買っといて義理チョコは一つもない辺りいっそ清々しいよね」
 金髪の青果コーナー担当者の、美貌ゆえに恐ろしい怒り顔を思い出し、男二人は顔色を白くさせた。
 今日仕事に出てくれなどとは死んでも言えない。
 日本の如月、鬼を払って半月も経たぬ内に女は鬼となる。こともある。
「諦めろって…大体お前、水曜の勤務楽しみにしてたじゃねえか」
 あいつ、今日も来るんじゃねえの?
 にやりと笑えば苦みばしった男前を、佐助は目じりに涙を滲ませつつ睨み上げる。
「来るかもしれないけどさ。あんなピンクピンクした販売ブースに近づくタイプじゃないじゃん?そりゃ今日はもう買い込む お客さんのピークは過ぎてるけど…入った瞬間回れ右で帰っちゃうかも。って言うかもう来なくなるかも。来なくなっちゃっ たらどうしよおお……」
 悲しげに呟きながら手を添えられたロッカーの金属の戸が、ベキッと音を立てて、凹んだ。
 元親は儚げな顔をしつつ黒いオーラを放つ橙色の頭から、一歩後退る。
 『今週も来るかなあ』と毎週のようにぼやいているが、今日は寧ろ来られる方が不安らしい。正直怖い、と元親は青ざめて 目をそらした。
(かすがといいこいつといい、まったく)
 恋する人間ってのは厄介だ。
 そう考えかけて、元親は首をかしげる。
(しっかしありゃ、恋とか言っちまって良いもんか?)



(情けないところは見せたくないんだけどなあ)
 さすがに売り場ではため息を抑えつつ、佐助はちらりと自動ドアに目をやる。
 磨き上げられた透明な硝子。明るい店内。汚れのないクリーム色の床と整然と並ぶ棚の中身。
 駅からは少し距離があるがその分落ち着いた雰囲気の、閑静な住宅街にあるスーパーマーケットはそう悪いものではない。
(それでも、あの人は、だって)
 ガラス戸の向こうの車道。軟らかげな細い枝を見せる槐の並木の間に、大きな車が停まったあの日。
 黒塗りのベンツなど現実に見たのは、そう言えば初めてだったかもしれない。佐助は二月前に思いを馳せた。
 そこから降りてきたのが例えば縞のスーツにトレンチコートなぞ羽織った元親だったなら、紛うことなくその筋の人だと 思っただろう。
 十二月の晴れた日、水曜日。
 午前十時の光の中を降りて来たのは、細身に仕立ての良いスーツとチャコールグレーのコートを纏い、右目を前髪で隠した、 若い男だった。
 元親が首を傾げたのはこの点だ。
――男、である。
 しかし佐助が毎週毎週『来るかな来ないかな』と気にして花占いまでやりかねない勢いの執着を見せているものだから、 店員一同は何も言わずに見守っているのだ。
 試食担当、猿飛佐助。
 怒った時の凄まじさは噂でしか知られないが故に、過剰に恐れられていたりする。
 ともあれ普段は温厚そうな垂れ目の店員は、その日も試食コーナーにひょろりと立って、平日午前中の暇時を堪能していた。
 その見るともなしに見ていた視線の先に、黒い磨き上げられた外車が停まり、続いて降りてきたのが件の青年だったのだ。
 急いた様子で歩道に下り立ち真直ぐ店に入って、店内を見渡す。
 細くもバランスの取れた体型に品のある身のこなしが目を引いた。
 自動ドアが風のような音を立てて閉まる一瞬、木枯しが彼の背から茶色がかった髪を揺らして、佐助の橙色の髪を撫ぜた。
 見つめていればその左目が橙色に視線を止め、ゆっくりと瞬く。
 目に風景を刻み込むような目蓋の伏せ方と瞳に映る光の強さ。
 その印象を目に刻み込まれたのはむしろ、自分の方だったように佐助は思う。
「いらっしゃいませー」
 咄嗟に、へらりと笑ってお決まりの言葉をかけた。見惚れていた言い訳をせずに済むのはこういう時ありがたい。
 男は切れ長の目でじっと佐助を見て、試食コーナーに足を向けた。
 キュ、と革靴が鳴る。
 靴も良い物を履いてるんだなあなどと考えているうちに、その人は豆腐ハンバーグの並んだ鉄板の前に足を止めた。
「この店、――万年筆のインクは置いてあるか?」
 そう言った声は僅かに掠れた深い響を持っていて、張り上げれば何十人もの人を従えられそうなのに、その第一声はどこか 心許無げで。
(うっわ可愛い)
 そう思う事に佐助は何の違和感も覚えなかった。後でそこに疑問を投げかけた元親は弾幕のような弁舌で返り討ちにあう のだがそれはさておき。
「ありますよーそんな特別な型じゃなければ。あ、風魔さんここ見ててくれる?」
 あっさりと売り場を放棄した橙頭に赤毛は黙って頷いた。風魔の手が空いてたんなら風魔に行かせりゃ良かったんじゃねえか、という後の元親の言は黙殺されるのだがそれもさておき。
 当然のような顔で文具コーナーに案内して、選ぶほども無い小箱を示した。
 青年が懐から取り出した万年筆は、艶やかな瑠璃のような青地に、巻きつく竜がうっすらと浮かび上がっている。
 特注品でもおかしくない。
「駅前まで行けば文具店もありますけど」
 手にとって仔細に検分するその横顔を、こちらもさりげなく仔細に鑑賞しつつ、そんな言葉をかけた。
「いや、多分これで…」
 佐助より少し低い位置にある左目のその長い睫を伏せて、形の良い唇を閉じ合わせた上には綺麗な鼻筋が黒髪に映えて見える。 肌が白いのだ。そして、長い前髪に隠された右目は。
(…あれ?眼帯?)
 目立たない大きさの黒い革が、細い紐で支えられている。
 右は見えないのだろうか。そう考えて改めて左目に目を向ければ、二つ分の役目を果たす瞳は深い漆黒に光を乗せて―― ふっとその視線を、上げた。
「Hey, 何見てやがる」
 彼が何の表情も浮かべていなかったので、一瞬その言葉の意味するところを受け取り損ね。
――睫、長いですねえ」
 佐助は間の抜けた声でそう答えていた。
「What?」
「や、だから、睫。長いって言われた事ありません?」
「…ねえな。別に」
「へーそうですかー…。あ、インクそれで大丈夫そうですか?」
「ああ。良さそうだ」
 Thank. と微笑めば、綺麗だが少しきつめの印象を与える左目が、ふわりとたわんだ。
(うわ…やっぱ美人…!)
 元親辺りが聞いたら頭を痛めそうな事を思いながら、佐助は満面の笑顔で「良かった」と頷いてみせる。
「じゃあレジはあちらですので」
 先導すれば他に買う物も無いのだろう、青年は佐助の右斜め後ろをついてきた。
(ああ、自分の眼帯のこと気にしてるのか)
 その歩く位置でやっとその事に気づいて、佐助は視線を前に向ける。
 長い前髪以外にそれを隠す様子も無くまた彼の顔にしっくりと馴染んでいたせいか、気づくのが遅れたのだ。
 あるいは単に彼の顔そのものに気をとられていたせいかもしれないが。
「風魔さんありがと。レジ入って〜」
「……」
 赤毛がまた黙って頷く。
 さてこれでお別れか、と試食コーナーに入って顔を上げれば、青年はまだそこにいた。
「…豆腐?」
 訝しげな顔で狐色の焦げ目の白い扁平を見つめている。
「豆腐ハンバーグと鰯ハンバーグですよ」
「beefじゃねえの?」
 合挽きとか、と首を傾げるので、鉄板に幾つか焼いて置かれたハンバーグの四つ切を二切れ、手早く串に刺してさし出した。
「どうぞ」
 にっこり、と仕事柄以上の笑顔つきで。
「美味しいですよ。無添加だし」
 白い手がおずおずと上がって、竹串を受け取る。
 カプリと噛み付く口元に、猫の牙のような犬歯が覗いた。
「冷凍食品なんですけどね。フライパンで焼くだけで良いんで――料理とかします?」
 ゴクリ、と飲み込んだようだがまだ口を開かずに、こくこくと頷くのが少し幼い。
 ひょっとしたら二十歳も超えているかどうか、などと考えながら、食べ終わったところにすかさず発泡スチロールの椀を 勧める。
「こっちは鰯のつみれの御汁。煮ると出汁も出て美味しいんですよ」
「ああ、…Thanks」
 白い椀を両手で受け取って、唇に近づけた。途端、
「熱ッ!」
「え!?あ!」
 発泡スチロールの入れ物は手に持っただけでは温度が分かりにくい。佐助はザア、と青くなった。
「すみません!熱すぎました!?」
「いや…大丈夫だ、ちょっと、」
 猫舌で。
 そう言って佐助を見上げた青年は、赤い顔で、少しだけ涙を滲ませて。
(うわああ…)
 試食販売員の顔を、逆に赤くさせた。



 そして彼は万年筆のインクと、鰯のつみれと豆腐ハンバーグを買ってベンツの中に戻っていった。
 味が気に入ったのか、翌週もベンツから降りてきて小田原の蒲鉾を試食して、買っていった。
 翌週は丸餅。
 その次の週は黒豆。
――毎週水曜日。
(水曜日にこの辺を通る用でもあるのかな)
 だとすれば、それが続く限りは寄って行ってくれるのだろうか。
 それが無くなったらどうなるのだろうか。
(どうもこうも、そうなったら来るわけないよね)
 試食用の生チョコの新しい包みを開けながら、佐助は遠い目をした。
 目の前でチョコレートを選んでいる女子高生の、今買うくらいだから本命用ではないのだろう、軽快な笑い声が余計に佐助の 心を彼岸に寄せる。
(…高校生?)
 もう放課後?
 ハッとした。あの青年は――まだ来ていない。
(いつもならお昼くらいには来るのに)
 出入り口にの向こう、槐の並木には、もう薄闇がかかっている。
 『情けないところは見せたくない』などと考えている場合ではなかった。
 少なくとも今日は来るのだろうと、いつのまにか無邪気に信じてしまっていたらしい。
 目の前が真っ暗になった。



 外も真っ暗になって、随分たった頃、すでに着替え終わった刺身職人がピンク色の幟の前を通りかかった。
「お。お疲れさ…、」
 くうるりと振り返った同僚の顔に、元親はあと十歩も残して足を止める。
「…お前、今日五時交代だったよな」
「……」
 時刻はすでに夜中の十一時を回って閉店も間近だ。魚介担当は間で一度抜けている。
「いやお前が体力あんのは知ってっけどよお、それ労働基準法で店のがやばいって」
「…旦那が」
「は?」
「竜の旦那が来なかった…」
 万年筆の模様から勝手につけたあだ名で呼んで、佐助は青ざめた顔をした。
「ああ、あいつな。――良かったじゃねえか、今日は来て欲しくなかったんだろ?」
「来て欲しくないわけないじゃないって言うかあいつとか呼ばないで馴れ馴れしい」
 一息で言ってゆらりとピンクの台の後ろから出んとする男の、黒々とした空気に気おされたように、元親は後退る。
 助けを求めるように出入り口に右目を向ければ、車のライトが槐の幹を照らして停まった。
「あ」
「え?」
 ナイスタイミングッと呟くも束の間。
「…あれタクシーじゃん」
 『それは俺のせいじゃねえ!』長宗我部元親の叫びがその右目に映ったが、猿飛佐助の顔には『問答無用』の四文字が。
「あ」
「チカちゃんしつこい」
「いやマジで。後ろ後ろ」
 襟首をつかまれた状態のままなお佐助の背後を指差すので、つかんだ手を緩めずに胡乱なものを見るような半眼で振り返った。
 風に似た音とともにガラス戸が閉まる。
 入ってきたのは細いジーンズと藍色のセーターの上に――いつものコートを羽織った、竜紋様の万年筆の。
「……あ」
「おわ!」
 佐助はぱっちりと開眼し、突然襟元を開放された元親は体勢を崩して転びかけた。
「Ah-, …まだやってるか」
「やってますやってますいらっしゃいませ!」
 声と同じく脚まで弾むようにして近づいた、その手に既にチョコの銀盆をのせているところだけはさすがと言うべきか。
「今日はsweetなんだな」
 青年はそう言ってビターチョコレートの味のしそうな前髪を揺らし、同じ色のサイコロ型に刺さった爪楊枝をひょいとつまむ。
「今日ですからねえ。…お客さんなんかいっぱい貰ったんじゃありませんか?」
 少々とっつき難そうだがこれだけ整った容姿と凛とした雰囲気の青年の事、学生か何か仕事をしているのか知らないが、 雨霰のようにチョコレートを降らされたに違いない。
 正直、貰う当人よりあげた人のが羨ましい。
 そんな考えを営業スマイルに隠しつつ尋ねた佐助だったのだが、しかし。
「Chocolate…?」
 口溶けのよい洋菓子を含みつつ、青年は首を傾げる。
 あれ?と佐助も首を傾げた。
「ええ。チョコレート、誰かから貰いませんでした?」
「誰かって?」
「え…っと、女の子から、とか」
(この人なら男からでも貰えそー…)
 佐助はハッとした。
「いや?何にも貰ってねえな」
 だいたい今日家の連中以外で会ったのはcabの運転手とあんたらだけだ。
 そう言って半分に砕かれたトリュフを口に運ぶ青年をじっと見つめる。
「…どれか気に入りました?」
「ん?んー、この柔らかいのと、こっちのbitterの…」
 バサ、と英字の印刷された包装紙が舞った。
 電光石火で二種類のチョコをラッピングすると、勤務も終わって私服の魚介担当の襟首を掴み。
「長宗我部さんレジお願いします」
「お願いしますって態度かこれ!」
 半ば放り込むように一番奥のレジカウンターに入らせた。
『お前、財布持ってきてんのか』
『すぐ返すから貸して!』
「…1,200円になりマース」
 呟いて、元親は自分の財布から千円札を取り出した。
「ありがと」
 礼の言葉よりも照れたような笑顔の方が珍しいと、自分では気づかぬままに。
 試食販売員は試食品でない品をその手に乗せた。



(本気で渡しちまったよ…)
 緑のエプロンの同僚からリボンのかかった箱を受け取って、青いセーターの青年は不思議そうな顔だ。
(受け取る方も受け取る方だがよ)
 口八丁手八丁は佐助の得意とするところ、ではあるが。
 元親はレジから出ずに遠くその光景を見守っていた。
 あれだけ色々心配していたくせに、男が男にチョコなぞ送って不気味に思われるとは考えなかったのだろうか。
(あ〜、だがありゃ脈がねえでもねえか)
 綺麗な分だけ生意気そうな、切れ長の左目だけを晒した青年。
 元親の右目にも整って見えるその顔にはこれといった表情も浮かべていない。
 しかしこんな時間にわざわざタクシーで、これから何処かに行こうというならこんな所で道草食いとも考えられない。



 要するに、あの青年は来週もこの店に来るのだろう。

 要するに、あの店員は来週もあそこに立つのだろう。

 要するに、あれは恋と言ってしまって良いのだろう。





 毎週毎週、水曜日にそいつはトチ狂う。
























試食販売員のSt. V alentine's-Day
























「…そういや、来月の14日も水曜日だな」
 呟いた銀毛の声に、後ろで赤毛が頷いた。