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目を覚ます。 と、睫から雫が零れた。 柱に背を預けて眠っていたために、頬に伝わらずにいたのだろう。 そこはまだ夜の中だった。 峠を越えた月明かりに秋の虫が啼いていた。 首を捻って骨を鳴らす。 どんな夢かは思い出せない。悲しみも喜びも思い出せない。泣いていたのは自分ではなかったのかもしれない。 誰かの涙が自分の目に宿ったような。誰かが自分の代わりに哀しんでいたような。 欠伸をして、すぐ隣に落ちていたものに気づいた。 それを眺めながら人を待っていたのだった。 拾い上げる。 ずっと右目に当てられていた物だった。 まじないの類だったのだろうか。 死にも至る病。 膨らんだ右眼の球を、えぐり落として、これで塞げ。さすれば命は助かる、と。そう言ったのは誰だったのか。 帆立の稚貝。 大きくなれば自分の顔ほどにもなる筈の、その貝殻。 そこにどんな特別な力があると言うのか。 分からない。しかし。 風が吹いた。 また眠りに引き込まれてしまいそうだった。あるいは、夢が眠りを呼ぶのかもしれなかった。 閉じた一つ目の裏で、流れる清水の面がキラキラと光る。 覗きこめばそこに、自分の顔が映っていた。 水面。 否。 あれは、川の。 「藤乃の…川の神さま?」 幼い声に、水の影はニイと笑んで。 好きなように呼べ。と、そう言った。 神さまなどではなくて (ただの河辺の童とでも思ってくれれば、それが一番、しあわせなことだった) 猿の佐助と河童ちゃん・終 昔々から、今でもきっと。 奥州国の境近く、その渓谷の奥深く。清い水が滾々と湧き出る泉があります。 泉の水は川となって森を抜け、人里へ流れ出て、人々の喉や田畑を潤し。 川は、里では藤乃と呼ばれています。 その清らかな流れには、竜の子が住んでいました。 里から上流へと辿っていけば、森に隠れるようにして竜神の社が立っています。 けれど竜の子は、今はその川にはいません。 竜は水源に、奥州国の境近くにある渓谷の奥深くの、泉のその奥に帰ってしまったのです。 その川べりの竜の社に、ある日、一人の男がやってきました。 洗い晒しの旅装、泥のこびりつく足袋、黒い髪に被る編み笠。 目だけが妙に明るい鳶色をして、染まりつつある秋の野山を見渡します。 名を尋ねれば、猿の佐助と答えたでしょうか。 背に大きな荷箱を背負ったその姿に、社の埃を払っていた青年が、目を止めました。 佐助は挨拶するように編み笠の縁を軽く持ちあげます。 青年は竜神の社の神主なのでしょう、肩の辺りでまとめた黒髪が白い装束の肩に垂れた、一見すると弱々しいまでに穏やかな風貌で、軽い会釈を返しました。 「…生きてらっしゃったんですね」 「おかげさまで」 へらりと笑って返す男が数月前、目の前の青年に殺されかけた事など誰が信じるでしょう。 ああ重かった、と佐助は呑気な声でつぶやいて、社の前の段々に荷を降ろし腰掛けました。 「今日は何を 神主の言葉にゆるく眉を寄せながら、佐助は申し訳なさ気に笑って見せます。 旅の薬売りの姿などして国境を越える影を、こうして見逃してくれるのは、彼が武士でなく神に仕える身であるからでしょうか。 僅かな焦げ痕や矢じりの傷が残る小さな社。 この戦乱の世に国の端で、それでも青年の一族がこの社の上流を守り続けてきた事は想像に難くありません。 けれど人の子の戦は天理が手出しすべきことではないと、他の誰でもない青年の主が言うのですから、彼には戦の先触れを それがどれだけもどかしい事か、忍びの佐助も、その端ほどは知っていました。 だからと言ってここから引き返すという選択肢もある筈が無く、鳶色の目はただ無防備に空を見上げます。 「この辺も…伊達軍の領土になっちゃいましたねえ」 佐竹の治める地が奥州の覇者に呑み込まれたのは、夏の盛りを迎える前のことでした。 その報せを佐助は、腹と脚の傷も腐るような暑い日に、床の中で耳にしたものです。 「軍勢もこちらまでは攻め寄せませんでしたよ」 「そりゃ来てたら大変でしょう」 武田も北条も黙っちゃいませんから。 目を細める男と青年の間を、冷たい風が緩やかに流れました。 「小十郎さん 陽だまりばかりが暖かくて、その中にいる青年は、いつぞやの殺気など知らないような顔で頷きます。 社から数歩離れたところを流れる川の水面が、初夏の頃に似て揺らめく光を乗せていました。 「此処より北の地では珍しくも無い装束と聞き及んでいます。私の一族で使う式と似た姿 小十郎と呼ばれた青年はそう静かに語ると、佐助の物問いた気な目に気づいて、ほろ苦く笑います。 「…すみません。もう長く人の世から遠ざかっているものですから」 人間の身でありながらひたすらに竜の子の守を務める一族と、聞き知っていた佐助はただ頷いて見せました。 ただかの竜のために生きているからこそ、他に向けられる牙には容赦がないことも、よく分かっています。 それがどの国の人間であるかなど青年にとって関わりにはならないのでしょう。 甲斐の忍びは骨ばった指の先で鼻を掻きます。 「その、人の世でない方の世は、その後どうなんです」 水の甘さを含んだような秋の風が吹きました。 「ご覧の通りですよ」 日差しは温かく木の葉を透かして、土の上に落ちていました。 せせらぎの音が男の足元に伸びた草を柔らかく揺らしています。 そしてそれは、そのままあちらの世の平穏を示しているようでもありました。 佐助は軽く頷いて、けれどまだ望む答えを得られていない様子で小十郎を見上げます。 「えーと…あの子は?」 人の穢れに触れた体を思って問い直すと、神主はちらりとその笠を見下ろして目を細めました。 「唇が荒れて大変でした」 「えええっ!?」 「…というのは冗談ですが、今も水源の清浄な窟に篭っておられます」 御身のあちらこちらに傷みを受けておいででしたから。 涼しい顔で格子窓を拭く青年に、佐助は一瞬引きつらせた唇をおさめ肩を落としました。 夏の間何度となく思い描いた、竜の子の姿は。 一度でも腕の中にあった、茶色がかった黒髪の小さな頭。見るたびに目を奪われた、雪を集めたような白い肌、水を固めたような薄青い鱗に鰭。切れ長の目の中の意志の強い瞳。細いけれど弱さをまるで感じさせない腕と脚を伸ばして駆けて、あの子は唇を吊り上げて笑っていました。 けれど同じほどに蘇るのは、そのきれいな肌に浮かんだ痣や、腐食したように濁って欠けた鱗や。 洞になったままの痛々しい右目。 (元気にしてる?) (いつもの顔で笑ってる?) (一人で泣いたりしてない?) 聞きたいことは山のようにあるのに、訊ねることも出来ません。 佐助は俯いて着物の懐の中を探りました。 「そうだ、俺、あの子に渡したいものがあるんですよ」 努めて軽く響かせた声に、小十郎が振り向くのが目の端に映ります。 着物の内に携えてきたそれを、佐助は右の手のひらに乗せました。 小さな帆立の貝殻です。 端に穴を開けて紐を通してある以外は、何の変哲もない、円にも近い薄片。 海の貝がどうしてあの川辺まで逆流したものかは分かりませんが、その貝殻はあの子が身に付けていたものでした。 ずっと、その右目の傷を庇っていたものでした。 「気がついたら懐に入ってたんです。何かあの時、持ってきちゃったみたいで」 持ってきたと言うべきか盗ってきたと言うべきか、あの日の記憶は定かではありません。 そんなにも離れたくなかったのかと思えば、自分で自分に呆れるばかりです。 「だから返さないと」 そう笑って顔を上げると、まっすぐに佐助を見る小十郎の目がありました。 いつかの、佐助を獣に襲わせた時を思い出させるような、強い眼差しでした。 「…そんなに大事なものだったんですか?」 「いえ、ただ」 佐助の問いに、小十郎は首を振りました。 「あの方が 佐助は眉をゆるく寄せます。 ただあの子が手向けに持たせたと言うには、青年の様子は真剣に過ぎました。 小十郎は静かに佐助に近づき、向かい合うように 「昔、あの川辺に、人の子がやって来たことがあるそうです」 潜めた声に、風がすう、と止んで。 日が雲に隠れました。 水のせせらぐ音が、遠くなりました。 * 昔、あの川辺に、人の子がやって来たことがあるそうです。 私がこの名を継ぐ以前、鬼庭はあの男だったかは未だ問いただしていませんが その子どもが何者かは知りません。あの方もご存知ではないのです。 けれど、それは仲良くなられたのだと思います。 竜の君はとても懐かしそうに話されていましたから。…あなたの話をするときと同じように。 ただの中身のない命もない二枚貝でしたが、そこには子どもの心が込められていました。 真心を込める、というような意味合いではなくて、子ども自身の心がまるごと、二枚の貝に包まれていたそうです。 竜の君は貝を受け取って。 対になった二枚を分けて、一枚を返しました。 子どもの心の半分と、竜の君の魂の半分を乗せて、返しました。 「…貝分け、と神々の間で呼ばれる行為があると先代に聞いています」 話しながら小十郎は目を伏せて、その貝の器を見ていました。 「それが竜と人の間で為せる事かは知りませんが その視線が静かに上げられます。 「人の心を持っていると言われると、否定できないものを感じませんか?」 あの方は。 そう言って小十郎は困ったように笑いました。 佐助は、あの子の声を思い出します。 『前に一度だけ、人の子があそこに来た』 その、子どもは。 「 佐助の言葉に、小十郎は頷きました。 「…死んじゃったんだよ、ね」 少なくともあの子は、そう考えている様子だったと。佐助は呟きます。 小十郎はもう一つ頷いて。 「戦に疫病に飢饉…幼子がどこで絡め取られてもおかしくない世です。しかし」 声を低めました。 「竜の魂を欠片でも受け取った者が、そう易々と命を落とすでしょうか?」 鳶色の目の縁が僅かに強張ります。 「そんなこと、」 聞かれても佐助に答える術はありません。いえ、答えなど求められていないのです。 (まさか) 嫌な予感のままに眉をひそめました。 「探しませんよ」 口をついて出た言葉にクッと、唇を噛んで。 「…そんなこと言われても、俺は探しませんよ」 「どうしてです」 涼しい眼をして問い返され、また一瞬口を閉ざしてから佐助は息を吐きます。 「どうしてったって、生きてるか死んでるかも分からない子どもを何の手がかりもなしに探すなんて無理でしょう」 「顔はよく似ていたそうですよ。双眸は揃っていたとうかがいましたし竜の君よりいくらか幼かったようですが……それに、」 小十郎が視線を落とした、自分の手の中の貝殻を、壊れないように握りました。 「こんなもの捨ててるんじゃないですか」 息が詰まって声が暗く濁ります。 「あなたは、」 と、何事か言いかけた小十郎の目が、貝殻を抱く手の僅かな震えを見て止まりました。 「 人の子が竜の子の様に血に侵される事はないのだろう。それでも。 必要とあらばまた嘘をついて、血塗れの戦に巻き込んで、要らぬ瑕を痛みを負わせて。 忍びの佐助はどうあっても、その子どもを一番に優先して生きる事は出来ないのですから。 「その子の為じゃなくて……俺、が、怖いんですよ」 同じ心で、同じように笑い、そしてもしも同じように寂しい目を見せる人ならば、尚更。いっそ出会わない方が良いと、佐助は芯から願いました。 貝殻を持つ右手に左手を重ね、握り合わせた指は祈る形に似ていました。 「……そうですか」 ふう、と風が吹きます。 日が現れて、落ちかけの葉を抱える枝影を地に落としました。 水音が川の方から響いてきます。 立ち上がる小十郎の結い下げた髪が揺れました。 「内緒話は、これで終わり?」 佐助がへらりと笑うと、青年は頷きます。 「無理を言ったようです。忘れてくださっても結構。ただ…それはやっぱり、持っていてください」 視線で佐助の手の中の貝を示しました。 「あの方がそう望んでいる気がするので。ここで受け取ってしまうと多分もう、返すことはできませんから」 佐助は小十郎を見て、開いた手の中の二枚貝の片割れを見て、顔を上げます。 「どこに行っちゃうんです?」 「竜の君の元へ」 にこりと澄んだ微笑みで、神主らしい白装束の青年は言いました。 「もしあなたがそれを手放したくなったら、供えに来てください。時折はこの社にも戻るでしょうし」 佐助は黙ったまま頷きます。 この竜の僕には獣の牙を向けられ無茶な仕事を頼まれと、懐かしむような記憶はまるで無いはずなのですが、胸の内に隙間が出来るような奇妙な思いがしました。 竜の社から青年がいなくなり、鬼男の居所も知れないとなれば、あの子を知っているのはもう己の上司ただ一人です。 知らず、貝殻を持つ手に力が込められました。 「あんたがずっと一緒にいてくれればあの子は、もう寂しくはないでしょうね」 「そうであればとは思いますが 小さな竜が受け取ってしまった、人の心は、ただ一人の力で容易くうめられるものではありません。 佐助が曲りなりにも持っている心のようなものでさえ、ただ一人に釘付けられていても、それだけで満たされるわけではないのですから。 (ああ、そうか) 青年が竜の片割れの事を教えてくれた、理由が、分かった気がしました。 「小十郎さん」 「…何でしょう?」 「今初めてあんたが人間に見えました」 佐助の言葉に竜の子いわく『強いて言えば白狐』の青年は、年より苦労を重ねたような困り眉になります。 「人間ですよ?自分でも残念な事ですが……大した力はありませんし、竜の君が無茶ばかりなさるから、最近では胃が痛いことも多いくらいで……」 腹を押さえてみせる仕草に佐助は苦笑して、「困った上司ですねえ」と赤揃えの若武者を思い浮かべました。 真田の旦那は今でも、天下がなされれば竜神に会うという約束を違えるつもりはないのでしょう。 竜の子は今もこれからも人の世を見捨てることはないでしょう。 けれど天下が統べられた後、それが武田の天下であったとしても、生き延びる事が出来たとしても。 佐助があの子に会うことは生涯叶わないだろうと思いました。 元より棲む世界が違うのです。 「あと、他にも」 どうして触れ合う事が出来たのか不思議なほどに、遠い存在なのです。 「預けようと思って持ってきたものがあるんですが」 夏の間ずっと自分に言い聞かせて来ました。 そうして、秋が来て。 佐助は背負ってきた荷の蓋を、開けます。 中を覗き込んで、小十郎は僅かに目を見開きました。 「これは…」 「あの子に渡してもらえますか」 貝殻は着物の内に戻して、大切にしまって、佐助は泥化粧のない頬をかきました。 「重いから半分くらいでも良いんですけど」 小十郎は覗き込んでいた顔を上げて、微笑みます。 「お預かりしましょう」 それから、自分の頭を指差して。 「本当の色が見られなくて残念です。あの方が自慢されていたものを」 苦笑した佐助の、黒く染められた髪が風に重たげになびきました。 「自慢ってそれ違うでしょう」 「そうですねえ。でも、自分の事のように得意げに話していらっしゃいましたが」 (…そんなに、) 自分の髪の色がそんなに気に入ってもらえていたとは、思っていなかったことです。 えー、と戸惑うように声を落として、佐助は口元を覆いました。 「それは それから、鳶色の目をちらりと川のほうに向けて。 「……ありがとう、って」 猿がそう言ってたって、伝えてくれますか? その声は。あの子に向けた最後の言葉は。 * はるか上空を舞っていた大烏は、青年が頷くのを黒硝子の目に映しました。 烏の目は、森の奥の、もう誰もいない川を映しました。 それからまたしばらく小十郎と話してた佐助は、そのうちに烏を呼び寄せて。 小十郎は佐助が去った後、竜の子のいる場所へと赴いたのでしょう。 きっと約束どおりに佐助の言葉を伝え、預けた荷を清めて渡してくれたでしょう。 貝殻の眼帯には触れずその話は伏せたまま、けれど自分に会った事を隠さず話すのだろうと、佐助は予想しました。 小十郎の話に、あの子は大人びた笑みで耳を傾けるでしょうか。 あるいは無邪気に牙見せて笑ったのでしょうか。 (俺が外の話をした時みたいに) 思い浮かべるのは全て佐助の記憶を頼りにした予想であり、願いでしかない姿です。 だから、本当は。 (俺の知らない顔でも 上田城の庭木からもいできたばかりの、艶々した丸い果実。 (本当は) あの子がどんな顔をして、その柿の実色に唇を寄せたのか。 佐助には生涯、知ることが出来ません。 けれど。 そのとき確かに、竜が零した笑み雫、とらえて目覚めた者がいた。 月の影は僅かばかり動いたようだった。 遠くから廊下板を渡る足音が近づいた。 小さな油皿の灯が、部屋の前まで来て下に下りる。 「失礼いたします。御呼びとうかがい参じた次第」 膝を突き面を伏せた武人の顔の、頬の傷を照らし出す。 その光に左目を細め、口の端を吊り上げた。 「Ha!畏まるなよ小十郎」 少し付き合え、と言って手をひらりと振れば、小十郎と呼ばれた男は部屋の中へ入り寄る。 「佐竹旧領の様子を聞きたい」 掠れた若い声に、武人らしくも整った顔が一つ、頷いて見せた。 「年貢米を民の備えに回させたのがよろしかった様子。冬を前に落ち着きつつあります」 「そいつはGood newsだ。野盗に蓄えを狙われないよう守ってやんねえとな 「城代に入った鬼庭に、そのように」 貝殻を玩んでいた手が止まる。 「何か…?」 低い声が訝しげに響いた。 「 落としたのは、夏の口。 「嵐があったな」 その少し前、梅雨の頃。天にも嵐、地にも戦の嵐が巻き起こった日。 「確かに」 言葉短く男が頷く。 「その嵐の折…佐竹の端で」 佐竹旧領の端、つまりは奥州の端の、三つの領土が接するあたり。 多木崎と呼ばれる川がある、その上流に。 「竜が出た」 ぼう、と油皿の火が揺れた。 「ってな、噂だ」 「…噂にございましょう」 火灯りが、一つしかない左の眼に光を揺らがせる。 ニイ、と。吊り上った口の端に、尖り歯が覗いた。 「元からあそこは曰くつきでな」 多木崎 「“竜”の字を隠した、と聞いた」 「隠した…」 「隠したんだか封じたんだかは知らねえが」 昔誰かがそう言っていたのだ。と、唇は呟いた。 「誰か、とは。鬼庭でしょうか」 首を振る。 「多分土地の子どもだったか 眉をひそめる。 「どうなさいました」 呼ばれて、眉間から力を抜いた。 「…Ha,こりゃやっぱり、鬼庭に問いただすか」 代わりに男が、訝しげに眉根を寄せた。 「書状をお書きに?」 それで済まないことは分かりきっている顔に、にやり、と笑ってみせる。 「No.雪解けたらで良いが…一番に。直接顔をあわせてな」 ため息はもはや承知の印でしかない。 佐竹に赴く。奥州の境へ。手勢を引き連れた それは、他国へ攻め入るという宣言に近い。 「…困ったお方だ」 「もう決めた」 あるいは、境向こうの甲斐や相模との話合の席になるのかは分からない。しかし。 青い袖が、幼い貝の殻を放った。 月明かりに白い顔、切れ長の目の中の金色の瞳、茶色がかった黒髪。 右目には、刀の鍔が。 人を斬る武具のそれが、眼帯にあてられている。 「竜の棲んだ川 後に独眼竜とさえ呼ばれる彼の名を、知らぬ者はいるだろうか。 では。 それでは、竜の容を持つもう一人の。彼の名を、知る者がいただろうか。 数月前。あの嵐の日。 見下ろす大地は大きなうねりを見せていた。 自ら己を飲み込もうとする断末魔は、その上に生きる者の耳には届かぬほどに膨れ上がり。 狭間に立つ影の小ささに、きりりと牙を食いしばる。 円く目を見開いた顔。濡れた茶の髪、濃く染まる紅。 惚けて見上げる鳶茶の目、葉影の模様は血の黒に侵されて、柿の実色の髪だけが (さっさと行けと言ったのに、あの阿呆ども) 胸を反らし息を吸い、大きく吐いて空の流れに足を踏みしめた。 神と呼ぶには小さい姿。肌には痣が浮かび目は片方を失い、鱗は濁って欠けている。 それでも世界の全てを見つめる一つ目に、敵う光は他に無い。 「爾今、伊に達りて仮の名を捨てる」 仮の名。仮初めにその存在を縛っていた名。 『水神様』と川下の声を、聞いたこともあったものだ。 返す声は届くことなく、呼ぶ声に答える声は無く、もう幾百の年月を 「継ぐ名を籐乃……トウノハヤミカミ…」 唇が僅かに震えた。 『藤乃の…川の神さま?』 『梵天丸様』 『梵!』 『水神殿、』 『とりあえず河童ちゃんね』 (守るために捨てていけ) 痣持つ両手を強く強く、握り締めれば震えは止んだ。 「… 声は雷鳴に体は風に。 流れ出し繋ぎとめる。水は川に、土は大地に、大気は空に。 人は、人の魂在るべき場所に。 そのとき確かに、竜が零したその笑みを、とらえた二つの目があった。 (…けど。あいつは、知らない) 一つの水脈から別の川になって地を渡り、やがて同じ海で交わる“流”の名を。二つ目持つ人間がそれと知ることは決してないのだろう。 だから、最後に河童ちゃんが。 "See you again." そしてその言葉は。 『また会おう』 それを教えてくれる人と、猿の佐助が廻り会うのは。 また別のお話ということになるのです。 |