蜜色月夜月が白藤の花を照らしている。 銀色の満月の夜である。 樹齢は幾十か幾百か、蔦も太い藤の木は薄紫でなく、甘やかな白だけを房に掲げていた。 夜の中、低い場所から枝を広げたその樹身は黒い大理石の玉座。上には銀の薄葉の天蓋をもち (とは言っても、座る貴人がいてこそ玉座) 「さーて、いらっしゃいますかねえ」 優しい夜風のような声に真珠の花房が揺れる。 ひるがえる天幕の内側、空紺青の衣の端が覗いた。 その色に目を細めたのは、生成り色の装束に身を固めた痩躯である。 人型の影を落としながらその橙色の髪の間に覗くのは、同じ毛色の狐の耳。 装束を突き抜けて当然のように揺れているのは、これも橙色の狐の尾。 それも、五本。 只の化け狐ではない。 けれど、まるで只の人のような表情を浮かべている。 ただ愛しい者に逢いに来た、男の顔である。 ひらりひらりと月明かりに歩み寄る。 満月の光は静かに強く、それだけ周囲の影も濃い。 五尾の狐は人の目を冷たく細める。 魑魅魍魎、姿すら定かでない小さな影たち。 ォオン……ォォン…ォオォ… 鳴声がザワザワと、森の木々枝々を揺らす。 彼らは、浴びる事の出来ない月明かりに、焦がれるように集まっている。 否。 月明かりに守られた尊い存在。その極上の精気に焦がれて群れているのだ。 光の下には入れずに、影のもとにも流れてくるそのお零れを一滴でも舐めようと 「…やれやれ」 五尾狐の脚がその一匹を踏み潰す。 潰す程度ではキリが無いことは知っている。 「悪いけど、この精気もその主様にも 人の形のその唇がつり上がる。 「触って良いのは俺様だけだからさァ」 メキメキと微かに音を立てて、口が耳に向かって裂けてゆく。 形を変える腕と脚を橙色の毛並みが覆っていく。 鼻と頬に走る紋様だけを残した五尾の獣。 牙と爪とが、影を引き裂いた。 ……… 橙色の夕日がさしていたから、最初は見間違いかと首を傾げた。 狐色、というにはあまりに赤味がかった、橙の実のような柿の実のような、その毛並み。 「Fox…だよ、なあ」 独りごちればパッと振り向く。 警戒心でいっぱいの野生の獣。 まだ仔狐だ。 それが、鮮やかな青い衣装の人型に目を細める。 次いでポン、と地を蹴って、くるりと宙で一回転。 降りてきたときには着物を纏った人の 青い袖を組んでピューッと口笛を吹いてみせる。 「お前、妖し狐か」 「そういうアンタは、どちら様?」 鼻と頬の紋様は消えていない。黒髪ではなく、先刻までの毛並みそのままの橙色の髪をして、けれど耳も尾も綺麗に消えていた。 (この年の一尾狐にしちゃァ上等だ) 普通ならばそれなりに群れている筈の妖し狐の仔が、一匹でいるのも興味を引いた。 だからその仔狐がそれは生意気な冷めた目つきで見上げているのも気に留めず、青衣はこちらも人型のまま歩み寄った。 鈴の音に似た音に仔狐が瞬きする。 音を立てるのは、青い絹地の着物の上に纏った飾り。 鱗のような薄片が幾枚も。 淡青の、濃紺の、水色の、露草色の、空色の、海色の 歩を進めるたびにシャラシャラと鳴り、夕日の橙色もとろりと金色に溶ける。 仔狐は目を見開いた。 鳶色の眼が素直な光を浮かべた。 「アンタ、まさか 「竜の旦那」 そっと優しく撫ぜる風のような。その声に目を覚ました。 左目をフッと開けば、覗き込んでくる男の顔。 月明かりも銀色の夜。 とすれば、あの橙色の夕日は 「夢、…」 うん?と首を傾げる、橙色の髪。橙色の狐の耳。にこにこと満面の笑顔の、見慣れた狐の。 青衣の竜の君は、ハア、とため息をついた。 「良い夢だったんだがな」 「……へえ、そう。起こして良かった」 「お前、」 睨みつければ狐は笑みを含みのあるものに変えて、藤の枝に膝をかけ顔を近づける。 「妬けちゃうから。どんな夢?」 竜の君はその左目を、しとりと横に逸らす。 藤がふわりと風に揺れ、薫りも揺れる。 「 仔狐の 言い終える前に唇を奪われた。 有無を言わせず歯を割って、柔らかく舌を絡めとり、甘く噛んで。 離れ際に、もう一度ちゅ、と吸い上げる。 「……、お前、最悪」 ハ、と短く息をついて忌々しげに、目じりを朱に染めた左目が見上げる先。 五尾まで成長したあの日の狐は、実に嬉しそうに笑みを深めた。 「アンタは最高だよ」 その顔をじいっと睨みつけ、竜の君はまたプイとそっぽを向く。 「 「は!?」 これには大人顔の狐も慌てた様子で身を起こした。 「何食ってきやがった」 「あ…あー、あれ」 チロリと睨めば、狐は納得した風に頷いてみせる。 「ちょっと、その辺の影をね」 食い散らかしました。 「Shit, …それでか。瘴気が残ってんだよ」 眉間の皺を一筋増やして、竜の君は藤の枝の一本に座りなおす。 スイ、と腕を花に伸ばした。 青い袖が揺れて、シャランと小さく飾りが鳴る。 白い指先が負けじと白い花房にかかり、それをふつりと枝からもぎ取った。 「影の蟲どもなんざ放っとけ」 そう言って、漱げとばかりに藤の房を、狐の口元に押し付ける。 「嫌だよ。アンタに触れる影は、俺だけで良いでしょ?」 白い牙が真白い花房に、甘く噛み付いた。 ……… まさか、と呟き息を呑む。 自分より背の高い、青い絹衣、白い肌。 茶色がかった黒髪が右目を隠しながら、日に透けて金色の輪郭を纏う。 その完璧な人型が 力が強く、位が高く、数は少なく、群を作らぬ あるいは神列に席を置く白狐ならば、会い目見える機会もあろう。しかし自分は生まれてたかだか数十年の妖し狐だ。 その目の前に姿を現す必要もない程、ちっぽけな、影ではないか。 シャラン、と澄んだ音を奏でて、竜の君は仔狐の前に膝を落とした。 仔狐は、思わず一歩、後退る。 目線まで降りてきた唇が開いた。 「耳と尻尾だけ、出してみねェか?」 「…はァ?」 ニイ、と笑えば口の中には竜の牙。 やけに悪戯めいた表情で、狐の仔は訝しげにその左目を見上げるばかりだ。 「耳と、尻尾」 「Yes,」 笑顔に気押されて、もう一歩、後退る。 「…出したとして、どうするんです?」 竜の君はその裾をクイとつかんで、その場に座り込んだ。 「触りてえ」 「……」 見上げられて言葉に詰まる。 (誰が触って良いなんて言ったよ) 仔狐は、自分の毛並みが、あまり好きではなかった。 「…病気みたいな変な赤毛ですよ」 「ああ。さっき見た」 それを、触りたい。 仔狐は眉をひそめ身を引いた。無礼があってはならない相手かも知れないが、それもどうでも良い事に思われた。 しかし竜の君は 「…病気みたいなってのは誤謬だな」 つやつやの、きれいなOrangeじゃねえか、なあ? 「…って、アンタが言うから、こうしていつでも触れるように」 「それが可愛げがねえってんだよFoxy Guy,」 呆れた目を向ける竜の君に、橙狐は惜しげもなく晒した五尾を揺さぶってみせる。 そうして自ら藤の白い房に手を伸ばし、折り取ってまた口に含んだ。 ふわりと唇を撫ぜる清い香りに目を細める。 月の光を纏う白は、同じ色した目の前の肌、その密酒に似た精気を思い起こさせるというのに。 柔らかい花びらはふわふわと頼りないばかりで、口付けてもあの滑らかさしなやかさには比べられない。 (物足りないなあ…) 咀嚼して飲み込んで、瘴気は洗い流されただろうか。 分からないのでもう一房、竜の玉座から摘み取った。 月が満ちる夜が来る度ここで逢う約束をしてから、百年二百年はとうに経った。千年にはまだ遠い。 気まぐれで承諾したような竜の君は、欠かさずに姿を現してくれてはいる。 (…でも、足りない) 飽く事は無く確かな関係とも言い難く、会うことを許されても触れることを受け入れられても、未だ満足に至るのは。 「痛ァ!?」 耳と髪とを掴まれた。 我に返って瞬きすれば、何百歳とも何千歳とも年上の麗しい顔が目の前で、呆れたように目を細めてみせる。 「 けれどその僅かに尖った唇こそが、幼子のように素直な心持ちを映し出しているのではないか。 「拗ねちゃった…?」 問えば顔に朱が走って、言い当ててしまったのだと気づいた狐の顔が緩む。 「ごめんね藤ばっかり啄ばんで」 「ッ……誰も、別に……」 馬鹿言ってんじゃねえ、そう呟く声が弱々しい、掠れて愛しい。 (満足感に浸れるのはほんの一瞬、だけどねェ) 蜜酒だってこんなに好い薫りはしない。 艶やかで涼やかで、果敢なく果てなく透明な甘露。 (ずっとそばで、酔ってたい) ……… 「とりあえず、帰らなきゃな」 竜の君は何事も無かった顔で、仔狐の着物を手放した。 まだ少年の域を出ない妖し狐は、二歩三歩と後ろに退って俯いてしまった。 (嫌われたもんだ) けれどそれ以上は逃げ出さないようで、獣の子も人の児も、アヤカシの仔だってこんな時には警戒心でいっぱいになるものだろうと竜の 君は立ち上がり、微笑んでみせる。 「迷子なら群を探してやるよ」 すると仔狐が顔を上げた。 竜の君の予想に反して、心許ない表情に夕日よりも赤く頬を染めた、年相応の顔をして。 「…良いです。戻りたくないし」 か細い声に首を傾げる。橙の毛色はそんなに嫌われるものだろうか。 (妖し狐のことなんざよくは知らねェが) 「一尾狐が群から離れちゃ、育つもんも育たねえぜ?」 「……、」 また俯かれてしまった。 狐耳が見えていれば、しゅんと垂れた様子が見れただろうか。 (育つもんも それも分かっていて口にしたのだろう。 悔しそうに薄い唇を噛んだ顔が、人間臭くて面白い。 竜の君はその橙色の毛並みに、ポンと右の手を置いた。 「帰っとけよ。それでもっとでかくなって、尻尾の数も増やしてきな」 「……九尾に成れるくらい、力つけろって?」 ボソボソと呟く少年姿の狐には見えないままに、青年姿の竜がにやりと笑う。 「俺が触りたいから」 夕日に負けぬほど鮮やかな、炎にも似た、柿の実にも似た 「じゃあ…、また会ってくれるんだ」 少しだけ喜色の滲んだ声の主の、橙色を笑み染まったままかき回す。 白い指で、梳かすようにその毛並みを撫で付ける。 額から後ろへなびく狐の髪と、同じ色した狐の耳を撫ぜて。 背に回した腕で尻尾ごと、抱きしめ返した。 首元でクスクスと笑われるのがくすぐったい。 「ほら、やっぱり好きでしょ?触るの…」 上機嫌な返事が耳のすぐ下で響いて、背筋を甘い震えが走る。 竜の君は、ン、と小さく鼻で鳴いた。 それが聞こえたものか、頬の辺りで狐耳がピクリと動く。 「竜の旦那ー、あんまり色っぽい声出すと俺がっついちゃう」 「Ha, …なら、喋ってんじゃ…ねえよ」 引き離してみようかと橙色の頭を掴んめば、「嫌だよ」と笑いながら耳たぶの下に食らいついた。 「何だかもう、夜が短すぎて…」 「、あ…」 顎の下の柔らかい皮膚に吸い付かれる。 じわり、と滲みるような感触にか狐の言葉にか、切ないような吐息が胸の下から洩れて出る。 「…妖し狐ってのは、案外成長が早いもんだな」 「何ソレ」 顎の下の声は笑いを含んでいた。 人型をとれば竜の君より背の高い、腕の長い、唇は睦むことを覚えた橙狐。 永の時を同じ姿で過ごしてきた竜にしてみれば、この狐の背が高くなるのも尾が増えるのも瞬く間に想えた。 見上げなければ目線が合わなくなったのも、抱き付かれるのではなく抱きすくめられるようになったのも、 …この狐は。 「竜の旦那…?」 ぎゅうと橙色の頭を抱きしめると、訝しげな声が胸元で響いた。 次いで、クスリと笑う気配。 「なあに?俺様がでかくなるのが嫌なわけ?」 からかう様な声に、その毛並みに唇を埋めた。 「……早すぎる」 「それは」 「あっという間にでかくなってすぐに、」 すぐに置いていかれるなんて。 ぽつり、つぶやく。 夜風が吹いて、藤の天蓋を揺らした。 月の光が淡い光を投げかけている。 銀めいた灯に狐の橙色の毛色が、優しい甘さの蜜のように見えた。 「……?」 小刻みに震えてそれがやがて肩に伝わり、竜の君の薄い胸の上に、笑い声が落ちた。 「 竜の声が地に這った。 「うん、いや、ごめん。だって…!」 顔を上げた狐の、何がそんなに笑えたものか、顔中を支配した笑顔に竜の君は眉を寄せる。 狐の目がそれを捉えて、コホン、とまだ顔も赤いまま、落ち着かんとばかりに咳払い。 「あのですね、竜の旦那」 「Ah?」 「竜神の精気ってのは俺みたいなアヤカシには強いの。物凄く強力なの。おまけに甘くて清らかで 「要点を言え」 光も姿を隠すような怒気に、それでも狐は照れたような笑顔を浮かべている。 「だからね?俺様の力が付くのが早いのは……実際これ、早いみたいなんだけど、竜の旦那とこういう事してるからであって」 掠めるように、唇が唇を攫う。 竜神の白い頬が今更のように染まった。 「竜の旦那の精気が流れ込んでくるんだよ…?交わる場所が深ければ、もっと」 妖狐の目が細まり、そっとその頬に手を添える。 触れられた頬がなお熱くなる。 「Wait!分かった、から」 シャン、と鱗片飾りが音を立てる。 逃げ場の無い藤の玉座の、その蔦の一本に背中がぶつかった。 「九尾狐になっちゃえば、まず死なないって言うけどね」 大概アヤカシなんて寿命は無いも同然で、他の理由で消えて行くんだから。 「そう…か」 ほう、と安堵して落ちる肩。狐の顔は竜の顔の間近にあって、にこり、と大人びた笑みを浮かべる。 「…だから、きっとすぐに九尾になるから。その後は、永劫アンタのそばに置いて?」 狐の囁き声が、竜の唇に響いて震わせる。 ……… 「Orange fox, what's your name?」 歌うような声に、歩きながら聞き惚れて 「…今、何て?」 すると竜の君は破願した。 端整な顔が、笑うと牙が覗いて子どものようだ。 「名前を聞いたんだ。お前の」 「あ、えと、さ…」 仔狐は口を押さえ立ち止まった。 アヤカシ達の間に名は呪となる。呪は存在を縛る。 相手が神の座にあってもそれは同じはずだ。 それでも見つめてくる金の左目に、縛られてしまおうかと口を開く。 「俺の名はね…、」 フ、と左目が見開かれる。 人さし指が狐の唇を制した。 指の主は、切なげに目蓋を伏せていた。 「…悪い。誰かと口利くのも久しぶりでな」 聞くべき事ではなかったと、視線をそらす白い顔は、何百年と日の光に照らされていなかったのか。 夕日の橙色に染め上げられた、暖かいはずの色も寂しげで。 仔狐は、口元を撫ぜた指を、捕まえて下ろす。 「佐助」 「 表情がほろりと抜け落ちた竜の君の顔。 左目だけが僅かに見開かれ。 「佐助って、呼んで?竜の旦那」 微笑む仔狐の手がそっと、握り返される。 「…佐助」 触れて僅かに離れた唇と唇の間に、吐息のような声が掠れた。 もう一度、ちゅ、と吸い上げる。 「佐助」 唇に柔らかく噛み付く。 「さす、」 声ごと吸い上げる。 抱きすくめて絡めとって。 ほんの僅かも離れたくないとばかり唇を触れさせたまま。 「 許された呪は、舌に甘い。 夜闇が世界に広がる。 月が白藤の花を照らしている。 その花の下シャラシャラと鳴るは衣擦れより艶やかな 銀色の満月の光はいつかの夕日の色を混ぜ、蜜色に、溶けた。 2007/04/24 雹狛さまに捧げます。 『甘で佐助が狐の伊達さんが龍の妖パロ』 |