白い日差しが屋根を照らす。
 庭先の木の枝下を穏やかな風が吹き抜けていく。
 人々が歩き、話し、笑っている。
――何の変哲もない光景に一瞬。音無き音が響き、大気を割った。
 全てが塩になって、崩れ落ちる。



 目を開けば、見慣れた天井が映る。
 窓から街灯の明かりが差し込んで照らす、夜の部屋。
 時計が一時過ぎを指している。
――一時。八月一日になったばかりの。
 昼に吸い込んだ暑さを吐き出すような、寝苦しい夜更け。
 彼女はベッドの上に身を起こし、汗の冷たさに一瞬、震えた。
 見えない右目のガーゼの眼帯が酷く鬱陶しく思えて、乱暴に外す。
「…政宗?」
 隣のベッドから声がかかる。金の髪がすべって光るのが見えた。
「かすが…sorry,起こしたか?」
 ルームメイトは首を振る。
「寝苦しいだけだ。だが冷房は入れる気にならんだろう?」
 政宗は暗がりの中、わずかに笑った。
「Okay,何か飲むか」
「ついでに蒸しタオルだな」
「熱くねぇ?」
「こういう時は熱いのが効くんだ」
 素っ気なく言ってかすがはベッドを立つ。
 政宗も眼帯をつけなおすと、床に足を下ろしてスリッパを探した。
 ぶっきらぼうに言葉を交わす、女二人のいつもの部屋。
――冷やした麦茶を飲む頃には、夢のことなど忘れてしまった。



 八月一日、午前一時。
 郊外の精密機械工場で熱感知と不法侵入を知らせる警報が鳴った。
 五分後、電流を流したフェンスの一ヶ所が突如断ち切られる。
 夜勤の警備が駆けつけたが人影はなく、だが熱が感知された場所の床と外壁には丸い、焼けて蒸発したような奇妙な穴が見つかった。
 フェンスにも焼き切れた跡が丸く残され――二ヶ所とも、人が通れるほどの大きさがあったという。



 工場内で荒らされていたのは所員のロッカーと事務所で、金属類や薬品の被害はなかった。
 ニュースが告げるのを聞き流して、政宗は画面に表示された時刻を見る。
 午前七時十分。
「かすが、お前今日もまだ休みだっけか?」
「ああ」
 カーテンの向こうで着替えていた影が返事をした。
「謙信様がお帰りになるのは明後日でな。午前中に境内の掃除には行くが、勝手に長居もできまい」
「俺は今日授業の後、バイトが三時上がり」
 afternoon teaなんかどうだ?
 聞けばカーテンが開いて、思案するような顔をした美女が頷いた。
「いいだろう。部屋にいるから連絡をくれ」
 設置された電話を指して言う。
 近所の寺の手伝いに通う彼女はそこの美しい坊様の影響か、携帯電話を持とうとしない。
 元より政宗の都合で引いた電話回線だったが、思うより役に立っていた。
「分かった」
 政宗の上機嫌な声に答えるように、かすがの金の髪が朝日に揺れる。
「ついでだ、一緒に服を見てくれるか?お前の分も――
「そりゃいいけどな。俺はかすがと違って毎日見せる相手はいねぇんだ」
「…!な、何を!謙信様は私の格好など、そんな…。それは細やかな観察眼で気づいてはくださるが…!」
「Ah,そうだな」
 政宗は笑った。
――今日も暑くなりそうだ。



 午前七時十五分。
 件の工場からほど近い街の、駅前の公衆電話。
 夏だというのに長袖の上着の前を閉じフードを深く被った男が、電話帳の薄い紙をめくっていた。
 フードの影にゴーグル、上着の影には赤毛がのぞき、印刷された名前を辿る指は金属で包まれている。
 “伊達”に始まる名前が並ぶ頁。
 “伊達政宗”でその指は止まり――前後もあわせて三枚の頁をちぎりとった。



 午前十一時半ごろ××市の路上で、男性が肩と脚から血を流し倒れているところを発見された。
 更衣室の小さなテレビが告げるのを聞きながら、政宗は首を傾げる。
――隣の市だ。
 襲ったのは身長百八十前後の男で、五十センチほどの刃物を複数所持し、ヘルメットとゴーグルの下に赤い髪が見えたと被害者は証言しているらしい。
――赤い髪。
(目立ってすぐ見つかりそうだな)
 自分の茶色がかった黒髪を調理師用のキャップにつめながら、政宗はちらりとテレビを見やった。
 男は奪ったバイクで逃走中であるという。



 午後一時十分。
 ノックの音にかすがは顔を上げた。
「……?」
――新聞か、あるいは政宗の知人かも分からないが、誰かが訪ねてくるとは聞いていない。
「すみません、隣の――
 女の声が隣の部屋の名字を名乗る。
 かすがは立ち上がると、玄関に降りてドアスコープに目を寄せた。
――見えない。
 抑揚のない声が、いやにくっきりと響く。
「荷物を預かっているんです」
 僅かな違和感に首を傾げるが、無視もできない。
「…それはどうも、今開けるので――
 チェーンに手をかけた瞬間、何かがバキンと割れる音がした。



 午後三時五分。
 覚えのない着信番号に首を傾げながら、留守録を聞いて――政宗は目眩を感じた。
――何故。どうして。
 強盗か何か、それとも伊達の。
(伊達家の問題だとしたら――
 自分を責める自分の声を聞きながらタクシーをつかまえた。
 病院に駆け込んで名を言うと、看護師がすぐに病室のナンバーを教えてくれる。
 走らないように、と聞こえた気もしたが、病室に入る頃には早足は駆け足になっていた。
「かすが!」
 ベッドに横たわったかすがが「政宗、」と呟くように呼ぶ。
 元より白い肌の顔は血の気が薄く、声も弱々しい。
 ベッドの横に立っている見知らぬ男を一瞬見やって、とにかく側に駆け寄った。
「かすが、大丈夫か?」
「死んではない」
「Ah…」
 かすがが僅かに、安心させるように笑うのに、泣きたいような笑いたいような顔で応える。
 だがその笑みは、すぐに消えた。
「お前は自分の心配をしろ、政宗」
「あなたが伊達政宗さんですね」
 立っていた男が声をかける。
 よく見れば若く、背広を着込んで――医者ではなさそうだ。
「私は県警の刑事で浅井と申します」
 固い声で名乗り、黒い手帳を見せる。
「少しお話を」
 後にしてくれ、と言いかけて政宗は、かすがの方をちらりと見る。
――今は、あまりしゃべらない方がいいのだろう。
 だがかすがは、必死な様子で政宗に手を伸ばした。
「政宗、…気をつけろ」
「かすが…」
 浅井がかすがに頷いて見せ、「私から話しましょう」と椅子を引いた。



 浅井は今日起きた通り魔事件について調べている、と言った。犯人はバイクで逃走、走り去った道路はこちらの市に続いている。かすがの証言から同一犯の疑いが高い――赤毛、痩せ型で身長は少なくともかすが以上、ドアを破壊しかすがを傷つけた大振りの刃物。
「その犯人が貴女を狙っていると、こちらの方は聞いたらしい」
『これは伊達政宗ではない』
 かすがの脚と背中を切りつけただけで、男は姿を消した。
「お心当たりは?」
 政宗は首を振った。
――伊達家狙いの手口とも思えない。
 ノックがして医師が入って来たのと入れ替わりに、浅井は席を外す。
「傷は目立つ跡にはならんでしょう。失血が酷かったのでもうしばらく点滴が必要です」
 入院に関する説明を聞いて、書類をあらためながら政宗はホウと息を吐いた。
――大きな傷跡が残らないことだけが救いだ。
「…かすが、すまないな。俺のせいで――
「…馬鹿を言うな。お前のせいなものか」
 まったく男はケダモノだ、と普段なら続きそうなところを、かすがはふっと睫を伏せる。
「…政宗、…犯人のことだが…」
「ああ、まるで心当たりがないんだが――まず小十郎に調べてもらおう」
「いや、」
 強い調子でかすがが首を振る。
「あれはお前が思うような敵じゃない」
 政宗の袖をつかんだ指が、震えていた。
「あれは、化け物だ」



 目の前が白く霞むのに痛みが骨に響いて、気を失うことさえできない。
――否。目をそらしてはならない。
 かすがは動けぬまま必死に男を見上げた。
 赤い髪に幅広のゴーグル。奇妙な服の腕と脚は金属の甲冑で覆われていた。
 その唇が、うっすらと開き――先刻は女の声を出してみせたはずの喉が、僅かに動く。
 かすがは耳を疑った。

……ィーエヌエィタイプショウゴウケッカイッチセズ……

 ぞくり、と悪寒が走った。
――何だ、この声は。
 カタカタとよどみなく連なる音。
 それに反応するように、ゴーグルに光が走り複雑な模様を描く。

……コレハダテマサムネデハナイ……

――ダテ。マサムネ。
(政宗…)
 痛みとともに刻みつけた姿が、かき消える。
 視界が霞む。



「…夢か、幻だと言われれば分からない。だがそうとはとても思えない…」
 かすがの手が政宗の袖から解ける。
「…顔も体つきも人間のものだった。だがあれは、」
「Monsterか…」
 かすがの言葉にしてもいささか信じがたい。
――だがいくらかは事実であるはずだ。
 声の事だけでなく、破壊されたドアも人間業とは思えない、と浅井が言っていた。
――変質的な狂信者の類か。
「…政宗、お前、警察に――いやそれよりも伊達家に、保護してもらえ」
「What?」
 驚いて左目を見開くが、かすがはこれ以上なく真剣な目をしている。
「心配してくれるのは嬉しいんだが、俺はあそこには…」
 言いかけて、政宗は口をつぐんだ。
(…今、何か)
 聞こえた。
「政宗?」
「あ…悪い、」
 何かが割れる音。
――悲鳴。遠くから。
「すぐ戻る」
 政宗は椅子を立った。
「待て、お前――!」
 制止の声を聞かず、廊下に出る。
――人影がない。
 ざわりと肌が泡立つような、静寂。
 そこに、バタン、と無遠慮な音が響いた。
 振り返る。
 廊下の端。非常階段に繋がる扉が開いて揺れる前に、誰かが立っていた。
――目を引いたのは、鮮やかな赤毛。
 両腕と両脚を覆う甲冑。
 ボストンバックと上着を打ち捨てるのが、やけにゆっくりと見えた。
 代わりに手にしたのは、三枚の羽のような金属の――(刃物…?)――それを、腰にも一振り。
(ここを離れたら、かすがが)
――否。狙われているのは自分か。
 非常階段からこの廊下の真中まで十数歩。
 政宗は息を吸って、斜め後ろの階段を確認した。
 赤毛はすぐに政宗を襲おうとはせず、目元のゴーグルを額に上げる。
 薄い色の、作りものめいた冷たい瞳が、政宗を見た。
(今だ、)
 踵を返す。
 振り向いた政宗の目に、廊下の反対の端の、もう一つの影が映った。
(浅井?)
 事態を察知したのか、先刻の刑事が目を見開き――ゆらり、と足を踏み出して。
 見る間にドサリ、と倒れ込む。
 政宗の足は一瞬、凍り付いたように止まった。
 浅井の後ろにはもう一人――まるで彫像か何かのような、影があった。
 濃い紅の赤毛。
 幅広のゴーグル。
 右腕と両脚を包む甲冑。
 その手に持った、大きな風車に似た四枚の刃。それを持つ手まで、紅く濡れている。
 倒れ伏した刑事から流れ出る色と同じ――
「逃げろ」
 耳元で声がした。
 浅井のものではない、やけに柔らかい響きの冷たい声。
 政宗の左目に鮮やかな、オレンジがかった赤が過ぎる。
 強く押されるがままに政宗は階段を駆け降りた。
 金属の――刃と刃の打ち合う音が、背後で響いた。
















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09/10/29