狐が一匹、鳥居の上。





 石の鳥居で約束しました。
 もう一たびと、約束しました…。



 梅雨の晴れ間の、陽射しが夏めいて眩しい日のことでした。
 政宗は白いシャツから伸びるまだ日焼けもしていない腕に、木漏れ日を映しながら、山道を登っていました。
 濃い緑の葉の間から落ちて、日の光は面白いようなまだら模様で流れてゆきます。
 そのとき政宗は十四で、仙台のお屋敷から避暑を理由に、山あいの村に程近い別荘に滞在していました。
 一つ違いの弟も両親も屋敷で、守役の小十郎と料理人の喜多だけが一緒です。
 村の子ども達とは馴染みがなく、遊び相手のいない政宗は一人で別荘周りの木立を探検していました。
――それが少し、深入りしすぎたようでした。
「Oh my…」
 持ち前の好奇心に任せて山の奥まで入り込んでいたようで、もう小一時間も帰りの方角が分からないのです。
 まっすぐ進んだのなら村人の来る神社が近いはずですが、四方を見回しても木々ばかり。
 日陰に咲く紫陽花が所々に、人の手で植えたのではないようで、小ぶりな花を咲かせています。
「まだ日は高い…が、」
 参ったぜ、とつぶやいて、政宗は倒れて苔むした楢の木に腰掛けました。
 と、その目の端で、何かが動きました。
 政宗の、左目しか利かない視界に入り込んだのは、鮮やかな橙色です。
「?」
 政宗はそちらに顔を向け、パチパチと瞬きをしました。
「……」
 熟した柿のような赤みがかった橙毛の、年のころは五つか六つでしょうか、粗末な着物の少年がじっとこちらを見ていました。
「Ah…?、ッ」
 政宗が驚いたのは、少年の赤毛の鮮やかさのせいではありませんでした。異国の人間に接する機会も家柄、少なくはありません。
 問題はその赤毛の間に、同じ色をした大きな獣の耳が、のぞいていることです。
 少年はしばらく政宗を見つめて、大声を上げたりしないのに心を許したのでしょうか、
「助けてクダサイ」
 と、小さく言いました。
 政宗はやはり、好奇心に勝てずに立ち上がりました。
 近づいて見てまた驚いたことに、少年の腰の辺りからは大きなしっぽが生えています。
 同じ赤みがかった橙色の毛色で、耳もよく見ると、これは狐の子のようでした。
「どうした?足でもくじいたか?」
「…これ」
 しゃがみこんで問うと、人の顔をした狐は、右足を見せます。
「Ouch…!」
 小さな足首が鉄の歯に挟まれて、血を流していました。
 罠にかかってどれだけの時間が経っていたのか、挟まれた周りも赤黒く腫れ上がっています。
「待ってな、今はずしてやる」
 政宗は直ぐに大きめの石と木の棒を探してきて、罠の口にかませて開かせました。
「っ!」
 少年はすぐさま立ち上がろうとし、けれどできない様子でしりもちをつきます。
「おいおい、その足じゃ無理だ」
 政宗は苦笑して、持っていたハンカチを裂きました。
 狐耳の少年は、政宗が裂いたハンカチで傷口をきつく縛るのを、じいっと固まったように大人しく見つめていました。
 耳もしっぽも警戒するようにぴんと立ち上がったままです。
「よし、できた」
「…ありがとう」
 手を離すと、ほうと肩と力を抜いて、しっぽからも力が抜けたようでした。
「一人で帰れるか?」
「うん」
 頷く少年に、はたと政宗は、自分の方が迷っていたことを思い出しました。
「なあ、罠があるってことはここ、そんなに村から離れてないよな?」
「え?うん、そうだね」
 すこし歩けば、道にでられるよ。
「案内してくれねえか?ああ、道までで良い」
 サッと少年の顔色が変わるのを見て、政宗はつけくわえました。
 少年はすこしの間口をつぐんで、考えているのか顔には表れませんが、耳がきょときょとと忙しなく動きます。
「うん、いいよ」
 やがて橙頭が頷いたので、政宗はその体を抱き上げました。
「なに?」
「歩けないだろ?」
 少年は何か言おうと口をパクパクさせましたが、何も浮かばなかったのか、政宗のシャツの胸をきゅうとつかんで腕に収まります。
 あっち、と指差す方に政宗は歩き出しました。
「…あんた、村の人とちがうよね」
「ああ。仙台から来た」
「センダイ?センダイじゃみんな、子どももこんな格好してんの?」
 どうやら少年は、政宗の洋服が珍しいようでした。
 村の方ではまだまだお医者や先生が着ているのを見るばかりなのです。
「みんなでもねぇな。好き好きだ」
 ふうん、と言って少年はしっぽをぱたぱたとさせました。
 抱えてみると小さな少年にしても軽い体で、これはやはり狐なのだろうと政宗は思いました。
 それも、とても幼いようです。
「村の人間じゃねぇと思ったから、助けを求めたのか?」
「…べつに」
「だって村のやつらなら、捕まえられてただろ」
「!」
 両目が見開かれて、木漏れ日に明るい鳶の羽色を見せました。
 それからパッと頭に手をやって、大きな耳をぎゅうと抑えます。
「安心しろ、ちゃんと道で放してやるから」
 橙頭のつむじに向かって言いうと、うう、とか、むう、とか聞こえるうなり声が返ってきました。
 山で狐に会うと化かされますぞ、という守役の声を思い出しましたが、何しろ相手は自分よりずっと小さな子どもです。
 政宗は軽くて温かい、小さな体を尻尾ごと抱えて、草を掻き分け枝を踏み――やがて、踏み固められた道へと辿り着きました。
 木々が緑の葉を茂らせる奥に、石の鳥居が白く覗いて見えます。
「Oh,なァんだ、裏手の神社の辺りか」
 なあ、あそこまで一緒に行ってみようぜ。
 ニイと笑って提案すれば、狐の子の尾はほたほたと、困ったように揺れます。
 けれど小さな手は胸の辺りをぎゅうと掴んだままなので、政宗はそのまま足を神社の方へと向けました。
「人がいたら元の狐の姿になれよ。そしたら、俺が飼ってる奴だって言ってやるから」
「飼われてないよ、おれ」
 ぷうとむくれた頬が、髪の下に見えます。
「嘘も方便だ」
 でも本当は、うちに来れば良いのに、と政宗は思っていました。
 幸い、神社には人影はありません。
 草がほろほろと生えた境内を、ぐるりと回ると、井戸が見つかりました。
「あんまり使われてないのか?」
 それでも欠けた桶を落とせば、地の下のさらに底の方から、ポチャンという音が聞こえました。
 引き上げて、最初の一杯は流して二人で足を洗うと、吹く風も涼しくなるようです。
「靴なんて履くもんじゃねぇな」
「…良いじゃん。かっこいいよ」
 ポツリと狐の子が言うのに、政宗は破顔します。
 二杯目を汲んで、それぞれに手ですくって喉を潤しました。
「良い場所だな」
 人も来ないし。
「そうだね」
 ヒトもこないし。
 鳥居の根元の、木陰になったところに座って、一人と一匹は頷きあいます。
「ここは稲荷じゃあ、ねぇのか?」
 くるりと見回しても、それらしい痕跡はありません。
「ないでしょ。だって村のやつら、狐キライだし」
「そうなのか」
 そうだよっと語気を強める橙の頭で、耳がぱたぱたと憤慨を示します。
「子どもなんか、おれさま見るたびに石なげるもん」
 政宗は眉をひそめました。
「ああ、腹立たしいよな。あいつ等人の顔ジロジロ見るくせに話しかけてこねぇし」
 服がどうとか片目が何だとか、五月蝿い連中だ。
 舌に棘持って言うのに、狐の子は分かっているのかいないのか、そうそうと頷きます。
 鳶色の双眸と、茶色い一つ目と、見合わせて笑いました。
「お前の怪我が治ったら、一緒に遊ぼう」
「うん」
 橙の尻尾がふわふわと揺れます。
 風が吹いて、二人が来た道へと消えて行きました。
 反対側のほうに、もう一本道があります。
「俺は夏中、あっちの道を下った別荘に滞在してる」
 指差してみますと、風の来る側、その上空に、大きな雲の塊が見えました。
 風に湿り気が混じります。
――Shit,一雨来るな」
「…かえったほうが、いいよ?」
 すごくつよい雨みたい。
 狐の子もそう言います。
「仕方ねえな」
 政宗はその頭を、橙色の耳ごとワシャワシャとかき回しました。
「じゃあ、また、ここで会おうぜ」
 また明日も明後日も来るからよ。
 狐の子は、尻尾を振って、笑って頷きました。



 ところが、その帰りに雨に打たれた政宗は、次の日から熱を出してしまったのです。
 黙ってお出かけになるからですぞ、と小十郎の小言を聞きながら、咥えた体温計は高熱を示していました。
――あいつの怪我が治るまでに、下がるといいんだが。
 本当は、人ので効くなら薬も持っていこうと思っていたのに。
 まだ時折曇っては雨を落とす空を、窓の中から見上げて、政宗は咳を繰り返し――やがて眠りに落ちました。
 狐の子は、政宗よりも早く歩けるようになっていました。
 とは言えまだまだ走れないのですが、石の鳥居にいってみて、しばらく待つと、待ちきれずに別荘のある方へと向かいました。
 そうして窓の外から、汗に顔を赤くして昏々と眠る、病気の政宗を見たのです。
 狐の子は――狐の言葉で、佐助という名前でした――人がよく使う薬草を探して、戻ってきました。
 佐助は人の姿になろうかとも思いましたが、耳と尻尾が隠せないまま人前に出てはいけないと、狐の教えがあります。柿の実のような橙の毛並みの、小さな獣の姿のままで薬草を咥えて、風を通すのに開かれていた窓から投げ入れました。
 それから近づく人影に気づいて、慌てて逃げました。
 人影は、政宗の世話をしている小十郎でした。
 小十郎は、佐助がこの近くをねぐらにする狐なのだろうと思い、投げ入れられた草に、酷い悪戯者だとも思いました。
 佐助は次の日も次の日も、薬草を持って行きました。
 けれど窓は閉まっていて、時折男が――小十郎が開いても、佐助がいるのを見ては閉めてしまいます。
 窓の中は覗けませんでしたが、次の日もやっぱり政宗は鳥居にいないので、佐助は政宗がまだまだ病気なのだと知って、別荘に向かいました。
 すると、いつもは開いていない、離れの建物の木戸に隙間がありました。
 中からは食べ物の匂いがします。
 入ってみれば、ひんやりとした中に、色んな野菜や、干した肉や、魚がありました。
――ああ、だれかがあらしたんだな。
 山の獣の跡があります。
 佐助は、「そうだ、くすりより食べるものをもっていこう」と思い立ちました。
 干し肉の包みを破って、咥えます。
 佐助には少し重くて引きずるようでしたが、何とか外まで出られました。
 すると、出た先に、人影があります。
 頬に傷のある、いつかの男が、火縄銃を構えて――



 パン。と、何かが弾けるような鋭い音を、政宗は夢うつつに聞いたように思いました。



 やがて熱も下がる頃には、政宗は仙台のお屋敷に戻る事となってしまいました。
 帰る前に一度だけ、石の鳥居の元にも行きましたが、狐の子が姿を現すことはありませんでした。



































































「石の鳥居?」
 青年の問いかけに、村の人間は「はあ」と気の抜けた声を返した。
「お宅のね、お屋敷を行く道をずうっと行くと」
 石の鳥居のある神社につくのだと、台車を引きながら男は言う。
「そこにその、うちの管理人がいるんですね?」
「管理人っちゅうんですかねえ」
 前の持ち主か前の前の持ち主から雇われていたのか、いつからか屋敷の裏手に畑を作ってずっと住んでいるらしい、若者が一人。
「村には下りてこんでね、神社の鳥居の下でボウ――としとるよ」
「…ありがとうございます」
 礼を言って、また二、三言葉を交わして、青年は山の方へ足を向けた。
 革靴が時折濡れた土を踏んで、乾いた埃に塗れていく。
 梅雨の晴れ間の陽射しが夏めいて眩しい中に、蝉の声が合唱していた。
 田んぼの畦道の間は日が照り付けて、時折水田を渡る風ばかりが涼しい。
 青年はネクタイを緩める事も無く淡々と歩く。
 山に入ると、背広の上着は腕に抱えた。
 白いシャツの袖に、木漏れ日を映しながら、山道を登っていった。
 濃い緑の葉の間から落ちて、日の光が面白いようなまだら模様で流れていく。
 やがて、木々が緑の葉を茂らせる奥に、石の鳥居が白く覗いて見えた。
 青年は足を止めた。
『小奇麗な洋服で、赤い髪の外人さんだよ。見たらすぐ分かる』
 驚くかもしれんがね。
 村人の言葉を思い出しながら、その白い根元に近づいた。
「…、おい――
 そこのアンタ、と声をかける。
 どうやって登ったものか、石の鳥居の天辺に腰掛けた、洋服姿の赤毛が振り返った。
――赤、と呼ぶより、それは。
――何?」
 柔らかいような、冷たいような声が、落ちてくる。
「その道を下った、別荘に住んでる男ってのは、あんたか?」
 青年は低く掠れた声を、上に向かって響かせた。
「そうだけど――?」
 見上げる目が光に痛んで、眩しく細まる。
「…あそこの新しい持ち主だ」
 下りて来い。
 と、言うまでも無く、次の瞬間には赤毛の姿は青年の前にあった。
 ふわり、と逆立った赤い髪が。
――赤と呼ぶより熟した柿の橙に近いそれが、下りて、顔が上がる。
「出て行けって?」
 青年より頭半分背の高い痩躯。
 その腕に、何でえぐられたのか古傷の痕があって、青年の視線に捲くっていた袖を下ろす。
 外人、とは橙赤毛を評してのことだろう。血は混じっているのかもしれないが、どちらかと言えば日本人らしい顔立ちをしていた。
 その顔にも両頬と鼻を一直線に掠ったような、傷跡。
 傷を見上げ、青年は首を振った。
――さっき建物の状態を見てきた。よく保たれてる」
 引き続き管理を頼みたい。
 そう言うと、男の鳶色の目は値踏みするように細まった。
「あの車、あんたのか」
 いたのか、と問おうとして青年は言葉を呑んだ。
 この鳥居の上からならば、見えていたに違いない。
――ずっと、見守っていたに違いない。
「そうだ」
 言葉少なく、頷いてみせる。
 男はゆるく肩を竦め。
「良いけどね、俺様は別に――出てかなくていいなら、何でも」
 それからひたりと眉を顰めた。
「あんたも、あんまり使わないってことだよね?あそこ」
 念を押すように青年の顔を覗き込む。
 大切なものを取り上げられそうな、子どもの顔に見えた。
――背は高いが、案外自分より年下なのかもしれない。
 そう思うと、ニイと青年の口の端が吊り上がる。
 その笑みに、鳶色の目が見開かれる。
「使うと言ったら?」
 え、と喉元で引きつったような声が漏れた。
――正直、あんまり昔のままなんで吃驚した」
 沈黙が下りて、蝉の鳴き声が一際強くなる。
 風が吹くたびにざわざわと梢が揺れる。
「まあその件も含めて、ちょっと話そうぜ」
 けろりと言い放ったのは青年の方だ。
 歩き出してから振り向いて。
「お前、名前は?」
 横柄に言えば、惚けた顔をしていた橙赤毛が慌てて後を追う。
「さ、佐助。――猿飛佐助」
「猿?」
 青年はジロリ、と左目で橙頭を睥睨した。
 右目は、茶色がかった黒髪で、隠されている。
「…なんだ、狐じゃねえのか」
 ぼそりと呟かれた言葉に、佐助と名乗った男は「え?」と忙しなく瞬いた。
「こっちの話――
 青年はそう言うと、手にした背広の袖を翻す。
「行くか」

 二人の影が、石の鳥居を離れていく。





「あんたの名前を、まだ聞いてない」
「Ah?…伊達、政宗だ」
「伊達さん。はじめまして、よろしく」
 政宗は、振り向かず、ひっそりと笑いました。


















09/01/30 加筆・掲載
初出:memo(08/08/15)