はじまりの温度







 その姿は戦場に落ちる青い雷。
 馬の蹄蹴る土埃に立ち上る硝煙、兵が群れなしてぶつかり合えば血飛沫が人の息に溶けて赤い霧になった。
 赤青の幟が混じり合う平野の大気はそうして何色ともつかぬ塵風に煙っていく。
 鬨の声も叫びも呻きも交じり合いその空を振るわせる様は、巨大な獣の唸り声に似ていた。
 と、そこに――
 パチリ、と薄殻のはぜる様な音が響く。
「Let's Party ――Guys!!」
 轟く声は未だ若い青年のそれだ。
 青い軍勢が雄叫びで答えれば、にいっと吊り上げる口の端から獣の牙のような歯がのぞいた。
 両手に三本ずつの刀は獣の爪と見紛わせる。鮮やかな青の陣羽織に細い三日月を空から降ろしたその兜。
 兜の下の、右目の鍔眼帯。
(…独眼竜)

 間違えようも無くこの戦場の渦の中心、その片翼にあって片翼を斬る姿。
 青い雷が竜のかたちを成し天に昇る。
 バチバチと大気を奔る音――その青い光は戦場の中、異質な様でいて、しかし。
(他の何処に似合うってんだ?)
 青い光に影が近づく。
 光が強くなるほど濃く落ちる陰のその闇の中から、するりと抜け出した影が一つ。
――!」
 影の腕が繰り出した銀の刃を、三本爪で反らし軽く左の目を見開いて。
 闇烏を見る雷竜の顔は、不意を突いて来たその攻撃を――喜んでいる様にすら見えた。
 見たくない顔だ、と烏は眉を顰める。
 血の匂いに血を求める獣の匂い。
 そんなものがこの青い竜の身から溢れていて、不敵に笑うその相貌は、戦場以外のいったい何処に相応しいと いうのか。
「……武田の忍びか」
 ク、と咽を鳴らして竜が笑う。
 戦場で笑うような人とはお近づきになりたくないな。それが烏の心境ではあるのだが。
「どーも。独眼竜――伊達政宗さん?」
 へらりと自分も笑って返してしまうのは、この忍び烏の癖である。
「てめえがいるって事は、真田幸村もこの近くにいるって訳だ」
 橙色の髪に木の葉隠れの斑染めの衣装。武田が赤い若獅子の隣を駆ける戦忍のその姿は、どうやら竜の目にも 留まっていたらしい。
「どうかな。…いずれにせよ今アンタのお相手をするのは、俺様の仕事でね」
 獣の体も両断できそうな大ぶりの手裏剣をその手に構え、烏は冷たく目を細めた。
「Ha! 忍びごときが相手たァな。――退屈させてくれるなよ?」
 竜が愉しげに構える六本の爪は、青い雷を纏わせている。
(あーあ…嫌な顔)
 この嫌な場所にぴったりだ。
 忍びは心中ため息をつき、戦場の雷に向け最初の一刃を滑らせた。




 それが五月の事である。
(早いもんで…半年か)
 十一月、白い雪の大地と青い空に挟まれた景色を眺め、佐助はやれやれとため息をついた。
 脳裏に思い返す戦場の、喉を痛めつけるあの空気、耳を打つ兵の叫び声と金属音。
 とさり、と何処かで雪の落ちる音がする。
 今は風の音も鳥の声も遠く、ひどく静かな冷たい大気が咽を洗うようだ。
 白い白い世界の中で、忍び烏の姿を隠してくれる陰は少ない。
 ただ雪を積もらせた常緑の木は枝の間に影を包んでいるから、佐助はその中にじっと身を潜めていた。
 濃い緑の葉に雪を纏わせたその木は、青葉と呼ばれる城の庭にある。
 青葉城は奥州筆頭、伊達政宗の居城である。
 武田の忍び、猿飛佐助は――奥州の深部にいるのだ。
 と言ってもその目的は奥州が武人の暗殺でもなければ伊達軍の情報収集ですらない。
 佐助は忍び装束の懐の辺りを撫でた。
 その迷彩染めの下には、白い四角い紙包みが収められている。
(寒中見舞いを兼ねた親睦の文ねえ…)
 甲斐の武田軍と奥州の伊達軍は今、同盟を結ぶ間柄なのである。
(まったく、忍び使いの荒いこって)
 しかし寒の入りまで待てば奥羽の地に積もる雪は人の往き来を閉ざすだろう。そうなったとて忍びの佐助なら 十分動きも取れるだろうに、それでも使いに出すのが今の時期なのは赤い大小の主達の、せめてもの気遣いなの かもしれないと苦笑が浮かぶ。
 木の葉の隙間から忍びが見つめる先は、少し距離のある部屋の中。青葉城の城主の居室である。
 部屋の中には文机に向かう藍色の着物の影。
 奥州筆頭――伊達政宗。
 五月の合戦での傷が未だに疼く佐助としては、あまり会いたくない相手だ。
 ゆえに席を外した時を見計らって、文を置いてきてしまいたい。
(なんだけど…さ)
 何時になったらこの部屋の主、食事を取るなり鍛錬に行くなり厠に立つなりしてくれるのだろう。
 佐助は尖った指でぽりぽりと頬を掻く。
 これで何度目か、竜の右目と呼ばれる男が部屋に来て――何やら資料と思しき冊子の束を置いて去っていった。
 要するに、佐助の仕える若き武人と違ってこの殿様、冬の間もこうした部屋の中の仕事で忙しいのだろう。
 さて困った、とそう思う他方で、その仕事にいそしむ姿に佐助は首を傾げた。
(なあんかあの人…印象が違うんだよね)
 遠目とは言え体格も時折部下と話す声も、あれは奥州筆頭その人に間違いは無いと佐助は確信している。
 しかし、淡々と文机の上で筆を走らせる――白い手、白い顔(右目の鍔眼帯はそのままなのに)、落ち着いた 色合いの藍色の着物。
 畳に座す影はまるで普通の『人間』に見える。
 日ざしと雪の照り返しを灯に白紙を捲る奥州筆頭は、庭先の忍び烏に気づく様子も無い。
 佐助がこの半年思い返してきた“伊達政宗”の印象はもっと苛烈なものだったのだ。
 三本の刀が鎖帷子すら破り、烏の肉を裂いたあの痛み、死を覚悟させられた感触。
 真っ赤な血が自分の腹から竜の爪に軌跡を描いた、その向こうの戦人の顔。
(そりゃもうおっかねー顔で笑ってたんだよな、あの竜は)
 思い出すたび口をつくのはため息で、己の主がその名を口にするたび雨に傷がざわつくたびに、増える重い吐息を 止められなかった佐助である。
 同盟の調印の折も甲斐に来た独眼竜は戦装束だった。
 炎の灯が揺らめく座敷に不遜に胡坐をかいた姿は、戦場の雷を彷彿とさせるものだったというのに。
「なんだかなあ…」
 胸中の言葉が対に口をついて出た。
 その時。
 ふ…と、部屋の中の青年が、顔を上げた。
――目が合った。
(いやまさか)
 そう思い目を凝らした時には若き城主は目を伏せて口に手を当て、クア、と欠伸をかいていて。
 しかし忍びの常人ならざる目は、確かに一瞬こちらを見たその左目を瞳に焼き付けていた。
 いつか見た目だった。
 その記憶に佐助の胸が不穏な鼓動を打ち始める。
(あれは――あれは、あの時の)
 闇から滑り出たこの身を見つけた、驚きと喜色。
 あの軽く見開かれた独眼竜の左の目。
 仕事に飽きたといわんばかりに体勢を崩して後ろ手を畳につき、奥州の竜はコキコキと首を鳴らした。
 そしてスラリと立ち上がり。
(う、わ)
 何の気負いも無い足取りで日のさす方へ近づき――雪の積もる庭先へ、履物を下ろす。
 藍色の着物に青鈍色の内掛けを羽織り、蒼い蒼い竜の身は、雪に青い影を落とした。
 さくりさくりと、氷の綿を踏んで歩く。
 晴れ空の下、雪の白さがその姿を明るく照らし出した。
 首を覆う長さの茶色がかった黒髪、すっと迷い無く線引かれた眉と鼻梁、光をのせる長い睫と切れ長の目。
 その作りは佐助の記憶にあるままで、ただそこに浮かぶはずの表情――戦を愉しむ者の歪んだ笑みだけが、奥州の 冷たい空気に洗い流されたように見える。
 ほう、と吐いた息が、白く煙った。
 白い舞台の上にまっすぐ立った姿は透明な存在感に満ちて、しかし決して不自然なところは無い。
 戦場にあれほど似合う――否、戦場以外に身を置ける場所があるのかと烏が疑った竜の、巣の中での姿が今の 彼なのだろうか。
(………)
 知らず、忍び烏は身を乗り出していた。
 と、ほんの僅かな動きに、トサリと枝から雪が落ちる。
(げっ)
 佐助が心の中で悲鳴をあげるのと、青年が顔をこちらに向けるのは、ほぼ同時だった。
 さくり、さくり。
 青い人が近づいてくる。
 そしピタリと立ち止まり。
――Hey, 降りて来いよ」
 忍び烏は瞑目した。
 確信に満ちた声音で呼びかけ悪戯っぽく口端を吊り上げる若い竜が、立ったその場所。
 刀の一本も腰に携えていない竜からは、木の中の影には手も届かず――しかし、忍びが手裏剣を飛ばせばその身 を引き裂ける、そんな距離。
 にいっと笑った口元には牙のような犬歯がのぞいて、けれど今それは竜どころか猫の牙にしか見えない。
 佐助はひどく戸惑った。
(そりゃまあ、危害を加える必要もその気も無い、けど)
 忍び烏は逡巡して、結局その距離がより遠くなる方向に飛び降りた。
 真っ白な明るい地面の上に雪が落ちるほどの音も立てず。
 表れた迷彩染めの姿に、青い竜はピューと口笛を吹いた。
「武田の忍びじゃねえか」
 面白がるような口調は、それでも戦場の愉しげなものとは違う。
 佐助は情けなく眉尻を下げ、困ったように笑った。
「…どうも。お邪魔しますよ、独眼竜の旦那」
 ふん、と鼻を鳴らして竜は忍びを眺めている。
 近づいては来ない事に佐助はホッとしたが、つまりは佐助が近づいてくるのを待っているのだと気づくのに時間は かからなかった。
(殿様気質なのかね、これは)
 しかし佐助は佐助で動きたくない。
 真っ白な光が柔らかく乱反射する中、薄青い影しか無い地面の上。
 闇烏は隠れようも無く、所在無げに立ち尽くした。
 沈黙が降りる。
「……」
 竜の一つ目がじいっと佐助を見つめ、やがて、さくりと一歩、踏み出した。
「……」
「……」
 近くに立たれると、この若い青年は佐助より頭一つほども背が低い。
 見上げる目が青い空を映すのを、佐助は不思議な気持ちで眺めた。
 何故ここはこんなにも静かなのだろうか。
「……あ、えと」
 さっさと用件を言えと怒鳴られる事も覚悟したが、竜は不思議と焦れた様子も無く、佐助の顔に視線を注いでいる。
 そして、薄っすらと唇を開いた。
「あんた、そうしてると変だな」
――は?)
 掠れた声が紡いだ言葉に、忍びはぱちくりと瞬きをした。
「変って言うか――…」
 ふっと口を閉ざし、竜はまたまじまじと忍びの泥化粧を見つめた。
 痺れを切らした、と言うより我慢できなくなったのは佐助の方だ。
「あ、あ、あの!真田の旦那からの信書です!!」
 懐から出した紙包みを、呪い避けのようにその一つ目の前に差し出す。
「What? 真田幸村から?」
 きょとんとした顔でお札をつかむ、青年の指の間には確かに三本分の刀の胼胝があるが、どうにも白い。
 その顔も、それなりに赤みは差しているものの雪をすり込んだような白さだ。
「ええと、寒中見舞いにはちょっと早いけど奥州はもう寒いだろうからって」
「そうか」
 呟いて竜は、その手を書状にひたりと押し当てた。
「……、」
 開くでもなくその宛名の辺りをなぞる白い指の動きに、佐助はまた戸惑い息を呑む。
「……」
「……」
「……」
「…あの、旦那?」
 佐助の困った声に、ん?と顔を上げる。
「何してるんですか?」
「ああ、」
 そうして政宗は、はんなりと笑った。
――温い」
 忍びの心臓が飛び跳ねた。
 懐に入れっぱなしだったのだから、確かにそれは温まっているだろう。
 しかしそれは佐助の体温で。
 それで暖を取っているのは――
「…竜の旦那」
「なんだ。ああ、返事か?」
 ちょっと待ってな、と部屋の方へ踵を返す、その体の前に風のように身を滑らせた。
 獣以上の身のこなしに、好奇の光が竜の左目に浮かぶ。
「返事は、明日にでも明後日にでも取りに伺いますから。今日はこれで失礼させて貰えます?」
「Ah? …別に構わねえがよ」
 青年は答えて、にやりと笑った。
「何だ、偵察かい?武田の忍びさん」
 悪戯気な顔はそれでも戦場の竜からは程遠いが、佐助は少しだけほっとした。
「多少の情報収集は許してよ。それに真田の旦那にずんだ買っていってあげなくちゃならないから」
 軽い声を何とか装い顔はへらりと笑って見せる。
 そうすれば青い竜は、取り澄ました奥州筆頭の表情を浮かべた。
「良いだろう。返事は好きな時に取りに来な」
「よろしく、お願いします」
 それじゃ。とそれだけ言って、風の速さで身を翻す。
 不穏な鼓動を抱えたまま、忍び烏はその身を隠せる森に飛び込んだ。
 振り向かずに木立の間をひた走る。
 冷たい風に目が乾く。
 駆けて、駆けて、駆けて。


 戦塵を裂く雷の青。

 雪の中に佇む静かな青。


 どちらの竜の姿も思い浮かべないように、橙色の髪を振る。
 立ち止まっても心臓ははね続け、鼻先は冷たく目にじわりと熱が浮かぶ。
 けれどもそれは走ったせいだからと己に言い聞かせ。
(やっぱり、あの人、苦手だ――

 吐いたため息は人の温度で、忍びの口元に白く煙った。




















2007/01/18