睦言卵色







 月夜の散歩で道を行く。
 欠けた月には青いばかりの光の道も、今宵はほの明るい金色に見えた。
 風の冷たい春の夜。
 銀色の満月が玉砂利を煌かせる上。
 竜の君は足音一つたてずに歩いていく。
 その代わり、青い蒼い衣に下がった鱗飾りがサラサラと、葉擦れともさざ波ともつかぬ音を響かせて。
 その後ろをきゅ、ぎゅ、と、軽いけれども確かな歩みがついて来るのに、目を細める。
――それで?虎の若子はどうだった」
 ぎゅぎゅ。と、後ろで玉砂利が不満げに鳴いた。
「どうもこうも、無茶苦茶。遠くから見ただけでもう勘弁してよって感じだよ」
 シャラン。歩みを止めて首だけわずかに振り返る。
 数歩遅れた後ろで、橙の髪した若者もそれに気づいて立ち止まった。
 髪の間から同じ毛色の耳と、腰からも同じ橙の尾が垂れる。
 人型をとった姿は竜の君よりまだ少し背の足りない、けれどすぐにも抜いてしまいそうな伸び盛りの腕と足。
 筆がかすめた紋様走る顔の、視線に戸惑う様は昔から変わらない。
――尾がただ一総のころから知っている。
 けれど神列の竜に気軽に近づこうとしないその態度は、このところ和らいでいたはずなのに。
(とっくの昔に三尾にもなって、獣の枠超えた力もついただろうに)
 この上何が不満なのか、と僅かに小首をかしげた。
「甲斐の虎の養い仔だろう?Crazyなくらいの方がらしくて良い」
――今夜はやけに離れて歩く。
「他人事だと思ってない?」
 拗ねたような口ぶりで、けれど甘えようとしない、若い狐。
 Han,と、牙見せて笑う竜の声のほうが寂しく、蒼い木立に消えていく。
「思ってるぜ?」
「酷い!」
 肩をすくめればシャラリ、と鱗の響きさえ冷たい。
「お前、前歩けよ」
 言うと、橙狐はぴくりと耳を動かした。
「…何で?」
「良いから前だ」
 白い指で光る道の先を指す。
 真直ぐに伸びた腕と、真直ぐな金色の視線と。
 狐は諦めたように耳を伏せ、鳶色の目をゆるりと背けて大きく踏み出した。
 さく、さく、さく、と青竜の横を通り過ぎようとする、橙色の四本の尾。
(四本?)
「ぎゃあ!」
「あ、悪ぃ」
 竜の爪が、そ知らぬ顔で行こうとする四本目の尾の先を鷲づかみにしていた。
 放せばするりと逃げる、痩躯の後姿の確かな四尾。
――佐助」
 低く呼ぶと、びくりと固まって止まる足。
――ただの狐の毛色と違う、橙の毛並みを青い竜がどれだけ愛でてきたことか。
 それなのに狐は歩みを速めて逃げてしまう。
「四尾になったんならどうして、すぐに教えない?」
 ちらりと振り向く鳶色は、困ったように緩くたわんだ。
「言ったらあんた、喜んで触りまくるでしょう」
「Yes,ofcourse」
 当たり前だろ、と返す異国語の言葉の強さに狐は笑んだまま眉を寄せる。
 玉砂利の細い道を、歩調を速めて。
 満ちた月の銀色の光が、狐の足の離れた場所から青い色に染めていった。
 佐助、ともう一度、迷い子のように呼びかけようとして。竜の君は声を呑んだ。
――橙の足跡が、道端に落ちた小さなものを迂回していく。


   ………


 四という字は不吉なのだと人は言う。
 それが狐の尾の数にあって凶兆を孕むのは、この字を通り抜けられる妖し狐のその数が、酷く少ないためなのだろう。
 満月の色濃い光が狐の足元、玉石に黒々と影落とす。
 影の主は鳶色の双眸を細めそれを跨いだ。
 ザリリ、と足音も苛立つように鳴った。
 三尾の頃より僅かばかりの強さ、けれど五尾に膨らむために揺らいでいる力は安定を欠いて、穢れ禍事を引き寄せやすいのだと。
――振りまきやすいのだとも、狐の影は哂う。
 シャラシャラと清涼な音が後ろから近づくのに、追いつかれぬよう足を速めた。
 砂利踏む音は無く鱗飾りだけが鳴り響き、音は辺りの闇に帳を張って青く光るかに聞こえる。
――神の列に座す竜が、自分などに構うのが、影狐には不思議でならない。
 と、満月に、ぼうと輝いて見える道の端。
 鳶色の目に映る、丸い玉。
 月明りも透かすような薄殻の、鳥の玉。
(…たまご、か)
 どの枝の巣から落ちたものか。
 ひびの一つも入っていないのは幸いだったが、妖し狐が喰うには小さく四尾の狐が拾うには儚い。
 せめて影さえ触れぬように避けて通った。
 竜のまとう軽い音色が、ひたりと止まった。
――?」
 振り返れば、数歩後ろで深くも鮮やかな青が、身をかがめ。
 何と言うことも無い仕草で、卵を指でもってつまみあげる。
「旦那。…竜の旦那」
「Ah?」
 低くなった声に、金色の目がたわんだ。
――まるで、呼ばれたことが嬉しいのだと。
「そんな、」
 そんな風に思わせる無邪気さが、この何百年ともつかぬほど齢を重ねた青竜の君にはあって。
 ふわりと背伸びして枝影の巣に卵を落とす、何気ない指の動きまで優雅でいるくせに、指先から滴るような精気の行く先には無頓着だ。
 祝福に似て光る軌跡。
「そんな風に小さな命にまで、恩恵みたいなもの振り撒いてちゃ、駄目だよ」
 もったいない。とは、喉に留めた。
 あの玉から孵る雛がどんなに好い風に恵まれようと、竜神の身に減じるところは些かも無い。
――仔どもじみた欲なのか。
 それとも自らへの嘲りを含んだものか。
 顔を背ける怪し狐に、竜の君はきょとんと髪に隠されない左目を見開き、次いでニンマリと笑う。
 ともするとたちの悪い笑みに見える顔は、ただ嬉しいときの癖のようで。
 それを知る者は自分だけで良いと橙狐は願っている。
――本当は、この寂しがり屋の竜の君に、触れる者は多いほうが良いのだろうけど。
 と。目を伏せた一呼吸の間。
 匂いか、気配か、音か。
 鳶色を見開かせた、涼やかな何か。
「竜の」
 風か水か何かを幾重にもしたような柔らかい袖に包み込まれ、言葉が僅かに宙に浮く。
――旦那、ちょっと、何…」
 静かに強い力で捕まえられて、揺れも取り繕えずに消える声。
 冷たい青い、竜の絹が顎に当たった。
(ああ、まずい)
 竜の身が穢れに曇ることなど考えたくもなくて。今夜ばかりは触れたくないと思っていたはずなのに。
 あまりに近い距離に目がくらむ。
 春の夜風よりなお甘い、花のそれより優しい蜜が、流れ込んで酔わせるようだ。
 サワサワと鳴るのは闇成す梢の葉擦れの音で、若い狐の鼓動も隠せない。
 腕の行き場に困って口を開いた。
「政宗、さん」
 控えめに、けれど熱っぽさと共に低くなる呼びかけ。
「んー?」
 返ってきたのは拍子抜けするほど軽い声に、わしゃわしゃと橙髪をかき回す指の動き。
「うわ、え、何なの?」
「Favor」
 身を引き離しても白い指は橙に絡んだまま。
――お前の言う恩恵ってやつだ。好きなだけ受け取れ」
 ニイと牙見せて笑う竜の君は、そのままこつんと額を合わせた。
(絶対あんた、分かってないでしょ)
 ひどく楽しげな顔をするものだから言葉もため息も胸に留める。
「何だよ、怒ったのか?」
 眉を寄せるのも顔が赤いのも、無自覚な唇がすぐそばにあるせいだと、それも言わずにおいて。
「いーえ、ありがたく貰っておきますけどね。…無事に五尾になったところで、虎の仔のお目付け役に駆り出されるだけなんだもん」
 視線をずらして、話をそらして、腕は振り解けぬままに肩を落とす。
 そうすれば、クスクスと降る笑い声が花びらのように軽く舞った。
「良いじゃねぇか。存外向いてるぜ?」
 お前、自分で言うより甘いから。
「どういう意味」
「そのままの意味だ」
 聞き捨てならない科白にも唸る声しか返せない。
 目線はこんなに近くに絡むのに、仔どもをあやす竜の手は四尾の狐などには届かない。
 ささやかな穢れなどものともせず、橙をかき乱す蒼い袖。
「…俺は、あんただけの傍にいたいよ」
 どれだけ真摯に言ってみても。
――今はまだ、雛の鳴き声より幼く聞こえるに違いない。
 しとりと美しく笑んだ竜の君の、白い顔を、同じように赤く染めるにはまだまだ遥かに遠いようで。

(無邪気な卵のふりをして、どれだけ蜜に似た言葉を重ねられるだろうね?)

 春の夜明けの僅かな遠さに、狐はゆるく微笑んだ。

















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