七夕が近づくと、毎年ニュースで目にするもの。
 笹飾りと呼ぶには大きなカラフルな吹き流しと、画面に映しただけでその土地と知らしめる、三日月前立ての石像。
 華やかさで知られる仙台七夕の映像を見るたびに、佐助はつぶやく。
――ああもう、かわいいな、ちくしょう。
 
 
 
 なにがかわいいって、その七夕の栄えた基盤を作ったその人が、だ。
 正確には、その人が佐助の思う人物だと言ってしまえるかは分からない。
――ただ、その略歴と名前だけで否応なく連想させられる、かつての『彼』は、確かにああいう派手なものは好きだった。大好きだった。
 そのころの、かつての佐助は、その派手な旗印とパフォーマンスを戦場でしか見ていなかったから――なんかそういう戦略なのかと最初は思ったものだ。
 いつからかそれが、単に好きでやってるわけね、と分かっていた。
 そして分かったころには、ああもうかわいいなあ!と思っていたはずだ。そのころの佐助も。
――その本心を、隠したりなかったことにしたりしていたかもしれないが。
「きれいな飾りだな、佐助!」
 なんでもかんでも元気に叫ぶ幸村が、隣で感嘆の声をあげる。
 そうだね、と佐助はうなずく。
 素麺のガラス鉢で氷がとろりととける、夏の夕べ。
 幸村は飾りがきれいだと言う。
 佐助はそんな飾りを好んだ人を思って、かわいい、とつぶやく。
 ニュースでは吹き流し以外の飾りとその意味、伝統行事を体験する子どもの姿などなどが映し出されていた。
――あの人も、この街にいるんだろうか。
 それでもって、小さいころには折り鶴を折ったりしたんだろうか。
――ここに行けば、会えるんだろうか?
「ちょっと遠いなあ…」
新幹線か高速バス。あてもなく訪れるには、広い街だ。
 『あのころ』ならまだしも、やっと中学三年の夏を迎える猿飛佐助である。
 それでも。
――会えるなら。
 かわいいなあと思う。無意識に使っていた言葉が『可愛い』という字なのだと気づいたのはいつの日か。
 かわいい、という言葉は似つかわしくなかったはずの、竜の名を持つ金の独眼。
――かわいい、可愛い、愛しい?
(まさかそこまでは、)
 苦笑して、今年も画面の中の七夕を眺める。
 分かりきった本心を自分にさえ伏せるのは、すでに習い性だ。
――行って見つかるなら、会えるなら、地球の裏側にだって。
 天の川の向こうにだって、飛んでいく覚悟はできているのに。
 
 
 
 同じころ、伊達政宗という少女が太平洋の向こう側にいて、クリスマスツリーに折り鶴を飾っていたりしたことを、佐助はまだ知らない。

















14/03/04 掲載
初出:memo(12/07/05)