猿飛佐助という男は、昔から自分と正反対だった。
 と、真田幸村は思っている。
 例えば、幸村が明日は遠足だとはしゃいでいるとき、佐助は面倒くさいと欠伸をしている。
 幸村が破廉恥でござる!と喚く間に、佐助は女子の携帯アドレスの三つや四つは獲得している。
 幸村がみたらし団子のパックをつかんで振り返ると、佐助は激辛スナックを買い物カートに放り込んでいる。
 幸村が大きくならねばと牛乳を飲んでいるのに、佐助は制服のサイズ変わったら困る、などとぼやいている。
 幸村が熱くたぎるような赤を選べば、佐助は褪めたオレンジや緑を選ぶ。
 幸村には秘密がない。
――佐助には、秘密がある。



 正確には、秘密があった、と言うべきだろう。
 今の佐助に秘密らしい秘密はない。
 七月の日ざしも明るい教室の机に、片手で収まる手帳を広げ、シャーペンを手に難しい顔をしている。
 その悩み事の内容さえ、今や周知のことだった。
「バイトバイトバイト、休みに、海……海かあ……」
 ふう、と悩ましげにため息をつく。
「泳ぐならお盆より前だよね」
「プールは?」
「混むのは嫌なんだよ」
 慶次の提案に、心底いやだ!という表情も隠さない。
「俺ァ断然海派だが、にぎやかなのも乙なもんだぜ?」
 元親が椅子の背を抱え込みガタガタと揺らしながら、佐助の机に近づいた。
 佐助はその紫の眼帯に、びしりと五本の指をつきつける。
「俺様は混むのが嫌い。政宗さんも混むのは苦手。あとあの人の水着はできるだけ人口密度の少ないところ限定でお願いしたい」
 おや指ひとさし指なか指を順番に折って、じろりと半目で元親を睨む――睨んだかと思いきや、へらりと笑う。
「それに、チカちゃんにも来てもらうんだからさ。海がいいでしょ?やっぱ」
「お?おお…」
 笑顔の気迫に押されてか、元親は椅子の上でじりじりと下がった。
 幸村は焼きそばパンをかじりながら、うんうんとうなずいた。
 政宗の水着は見たい、だが他の男には見せたくない、だがしかしふたりっきりで海になど行けない。そんな思惑が混然一体となって絡み合った、分かりやすい男の事情である。
(政宗殿も大変でござるな)
――否、大変だなどと、逆立ちで町内一周してでも思わせないに違いない。佐助が。
 政宗殿、と幸村が呼ぶ女子。
――彼女こそが、猿飛佐助の、“秘密”だった。
 幸村が武田信玄の道場に通い、朝も晩も鍛錬し、寄り道もなく、虫歯はすぐに発覚し、ご近所の誰の目から見ても明朗な生活を送っていたこの十七年と数ヶ月。
 佐助はいつもどこかをふらふらと歩き回り、幸村の知らぬ人物の電話番号をアドレス帳に並べ、ボランティアと称しては姿を消し――眠りにうなされ飛び起きて、そのくせ『何でもないよ』と笑う。そういうやつだった。
 幸村は、けれど、佐助のことをよく知っていたから、心配はしていなかった。
 そもそも佐助に秘密というものがあること自体、幸村や、近しいものしか感じていなかった節がある。
 幸村は、佐助がどういう人間であるかはよく知っていた。
 佐助はいつでも幸村の隣にいた。幸村を見守っていた。幸村が転びそうなときや、何かにぶつかったときや、困っているときは、必ず手を貸してくれた。お小言も言った。文句も言った。礼を言われればまんざらでもなさそうだった。たったひとつの秘密を除けば、それほど複雑な人間ではないと幸村は思っている。器用で要領がよく、面倒くさがりだ。あるいは面倒くさがりなのに悟りきれてもいないから、どうしても要領よくならざるを得ないのかもしれない。
――そんな佐助が、たったひとつのことに関しては、必死だった。
 必死だったのだろう、と幸村は思う。
 わずかな時間を惜しんであちらへこちらへ、なんでもないような顔をしながら飛び回っていたあの頃は。
 丸一日部屋に閉じこもり、目を赤くして幸村に笑いかけたあの頃は。
『旦那はさあ、生まれる前のこととか、覚えてる?』
『生まれる前のことなど、覚えているはずもないだろう』
『でも、……じゃあ、それは置いといて』
 伊達政宗って名前に、覚え、ある?
――じっと自分を見つめて、そう言った、あの頃は。



 それから随分たって、佐助は伊達政宗を見つけ出した。
 と言うより、あちらから佐助に会いに来た。
 それもこれも、佐助が長年あちらこちらで政宗政宗と連呼していたためだろう。恐ろしい執念である。と幸村は思っている。
――そうして、佐助の秘密はなくなった。
 それは、もちろん、会うより先に政宗のことを知っていたのは幸村にも不思議でならない。記憶を掘り起こせば、まるで彼女と生まれる前に出会ったのだと言わんばかりの発言もあった。
 しかし今となっては、そんな日々などなかったように、ただ政宗が政宗がと目の前のことに忙しいようだ。ある意味健康的である。安心至極。世はなべてことも無し。幸村は焼きそばパンの中腹にかぶりつく。
 間近に迫るのは高校生活最後の夏休みだった。
 高校最後の夏休みなど受験に消えるだろうと考える向きもあろうが、夏は夏に違いない。
 幸村はスポーツ推薦がほぼ決まっている。もちろん油断はならない。気を緩めずいつもの生活をすることだ。
 慶次も志望する大学ははっきりしていて、十分なカリキュラムが組まれている。というのも、組んだのが去年卒業した旧生徒会長なのだから十分すぎるほどと思って間違いない。
 元親は高校を卒業したらしばらく旅に出るのだと言っている。今だとて出席日数ぎりぎりのところを、しょっちゅう船に乗っては遭難しているのだが。これには旧生徒会長こと毛利元就も匙を投げたらしい。
 そしてバイトバイトでカレンダーの大半が埋まっている佐助は、そのバイト自体が就職先の研修も同然なのだそうだ。武田信玄の関与する会社だけに幸村も、しっかりやるのだぞ!と背中を叩く所存である。やめてくれよ旦那に叩かれたら吹っ飛んじゃう、などと言われても全力で叩く所存である。
 斯様に各々するべきことがはっきりしている夏、佐助が悩むのは全員のスケジュール調整だ。
――夏。
 それは、恋の季節だと前田慶次は言う。
 春夏秋冬言っているのだから、いいかげんに聞き流すという術を幸村でさえ覚えた。聞き流す前から興味ないこと耳に入ってないじゃん旦那、と佐助辺りは言うのだがそれはさておく。
――その恋の季節に、男どもの予定を合わせて海に行くと豪語する当の佐助の目的は、やはり恋と呼ぶべきものなのだろう。破廉恥極まりない。
 もちろん、佐助が連れ出したいのは伊達政宗である。
 長年思い続けた(多分)相手であるが、佐助は政宗と正式に『おつきあい』できているわけではない。
 理由としては、出会った瞬間に起きた事故(より正確には事件)、佐助なりの思惑などなど多々あれど。
――一番は、政宗殿の保護者である鉄壁の守役のためであるらしい、と佐助の口ぶりから察せられる。
 片倉小十郎景綱。彼の目の黒いうちは、佐助と政宗の『おつきあい』など認めないし、佐助と政宗をふたりきりで海になど行かせはしないだろう。
 幸村もこれには半ば賛成である。
 佐助と政宗の仲はおおいに応援するが、まだ高校生の身でそう深い関係になるものではない。そう考える幸村の思考回路は、要するに少し、割と、かなり、古風だった。
 第一、幸村とて、まだまだ政宗とともに遊びたいのだ。
 それは元親も慶次も同じだろう。
 聞かずとも頭数に入っている元就や、小太郎や、かすが嬢もそのはずだ。
 だから、佐助が頭を悩ませるのも他人事ではない。
「三日は?俺空いてる……って、ああ、そうか」
 ごめん、と手帳を覗き込んだ慶次がカラリと笑う。
 八月三日。
 佐助の手帳に花丸のついた日は、政宗の誕生日である。
「いや、政宗さんさえ空いてればそれもいいんだけどね」
 妹さんとかお父さんとかと予定あるらしいから、とすでにチェックずみの様子で佐助は――花丸に星を足している。
(そう言えば)
 二年前は大騒ぎだった、と幸村は思い返す。
 二学期の始業式の日、ふと佐助が、『政宗さんの誕生日、もうすぐだよね?』と言ったのだ。
――あいつの誕生日って八月じゃなかったか』
 答えたのは元親だ。
『うそ』
『うそじゃねーよ毛利に聞いた』
『うそ』
『うそじゃねーって、おい』
『うそおおおおお!?』
『おい、ちょ、落ち着け佐助!』
 取り乱した佐助は二階から飛び降りかけた。
――昔から高いところの好きなやつではあったが、何か変な趣味に目覚めたのだろうか。
 その四ヶ月ほど前に折った足がやっと完治したころだったと言うのに、まったくもってばか者だ。
 このときばかりは立場を変えて、幸村が説教したものである。変な趣味に目覚めるな!と。
 今となっては笑い話だ。
 けれど。
(思えばなぜこやつは、政宗殿の誕生日を九月だなどと覚えていたのであろうな?)
 不思議な話である。
 焼きそばパンの最後の一口を頬張り、かみしめながら幸村は佐助の手帳を見つめた。
 浮かれたピンクの花丸を、見つめた。



 伊達政宗という娘は。
――何と言うか、とにかく、ただものではない。
 と、幸村は思っている。
 佐助が政宗のどこに惹かれ、どういう理由で傾倒しているのかは幸村には定かでない。
 だが、幸村は幸村で、政宗にはいつも舌を巻かされるばかりなのだ。
――最初は、佐助が骨を折って入院していたとき。
 別々に見舞いに来ていた幸村と政宗は、何故かよくタイミングが被さった。
 女子は守るべきもの、と当然のように叩き込まれて育った幸村ではあるが、政宗嬢は――なんと言うべきか、庇護すべきものではなく、ただその毅然としたたたずまいで、道を譲らされる存在感がある。
 隣の女子高のセーラー服の、品の良い長さのスカート、その紺色からすらりとのぞかせた白い脚で、どこか武芸仕込みを思わせる美しい身のこなしで歩き、清楚な花束など抱えていれば、それはもう比喩でなく誰もが振り返るほどだ。
 そのくせ、幸村を見つければニイ、と猫めいた牙を見せて笑い。
『よう、真田幸村じゃねーか』
 と、なんともはすっ葉な口調で声をかけてくる。
 そして、ささやかなゲームを持ちかける。
 早いのはエレベーターか、階段か。
 最初にすれ違うのは男か、女か。
 佐助の病室の花は赤か、青か。
 小さな賭けで勝ったの負けたの熱くなったのは、みっつの歳から真直ぐ駆け足で育ったような幸村ばかりではない。持ち前の推理力と直感で数々の勝負を制する政宗も、負ければ心底悔しがり必ずリベンジをもちかけたものである。
 しまいには佐助が病室でオセロやら将棋やら用意して待っていた。
『遊びたいならここで勝負つければいいでしょうが!道草食わないで!』
――今にして思えば、伊達政宗に関しては独占欲凄まじいこの佐助が。
 やつがそんなことを言い出したのが――彼女を足止めされたくなかったから、と説明すれば不思議もないのかもしれないが。
 自分こそ政宗とふたりきりになりたいのだ、とひとこと言えば、さすがに幸村だって遠慮したものを、佐助はただ、ふたりの勝負熱に困ったように笑っていた。佐助のそばでありさえすれば楽しげに眺めていたものだ。
――懐かしい、眩しいものを見るように、目を細めて。
『確かにガキのころみたいだなぁ』
 政宗はケラケラと笑い、ふと目を細める。勝負に熱くなる以外は、視線のひとつでさえしなやかに大人びた様を見せる、左だけの目。
――あんたは、こういうGAMEにしちまえば、男だとか女だとか考えちゃいられなくなるやつだと思ったんだ』
 だから、幸村と会うと、ゲームになるのだと。
『それは、しかし…』
 しかし。
 と、幸村は答えあぐねる。
 きっと、あの時上手く口にできなかった回答は。
“ただゲームだからではなく、政宗殿との勝負だからなのだ”
 そして。
“佐助もまた、政宗殿が女であろうが男であろうが、関係なかったのだ”
――だが、おそらく彼女は、そうは思うまい。
 結婚してください。
 と、それを男の佐助が言えば、十中八九まで相手は女である。
 佐助にとっての伊達政宗はさておいて、政宗にとっての猿飛佐助はそこから始まった。
 だから、佐助は政宗をどこまでも女として見ている。と、政宗が思うのも無理からぬことである。
 幸村が思うには、男であればそれはそれで、別の方法で掻っ攫おうとしたに違いないのだが。
――少なくとも政宗がその名から思われる性別であれば、佐助だってあんなことは口走らなかっただろう。たぶん。おそらく。きっと。いやまさか!
 幸いなのは、政宗が佐助のあの言葉を、そう不愉快にも思っていないらしい、という点だ。
――もしも、あの方が佐助を拒んでいたら。
 佐助は酷く傷ついただろう。傷が深すぎて壊れてしまうかもしれない。
 伊達政宗という存在は、佐助の秘密だった。
 秘密を持たない幸村には、あまり分からないが――秘密が深ければ深いほど、他人とは共有できない思いであればこそ、それは佐助の奥深くまで食い込んでいるのだろうとは察せられた。
 だから、政宗という人物を知ったとき、政宗が佐助を好意的に思っているのを知るたびに、幸村は安堵した。
 安堵。
 それとも。
 納得。
“嗚呼、そうか”
 貴方だったのですね、政宗殿。と。



 佐助と幸村は、幼いころから一緒だった。
 兄弟でもなく、血の繋がりもなく、正反対で、けれど一緒だった。
――それに疑問を覚えたことはない。
 親元を離れ、ふたりで武田信玄の屋敷に住まっていた。
――それに疑問を覚えたことはない。
 佐助には、秘密があった。
――それに疑問を覚えたことはない。
 ずっと、猿飛佐助は、秘密を抱えて、幸村のそばにいた。
 だから、佐助が幸村の一部であるように、その秘密は幸村の一部のようでもあった。
 幸村の中で佐助の秘密は、誰かの後姿のようなかたちをしていた。
 その青い背は、きっとずっと昔から、佐助の中にあることで、幸村のそばにあった。
 その後姿が振り返ったとき、はじめてその顔を見たとき、幸村は。
“なるほど、この方だったのか”
 欠けていたピースがはまったような、納得と安堵。そして、旧い友に会ったような懐かしさを、確かに覚えた。
“この方であれば大丈夫だ”
 無条件の安心感が、あった。
 だから幸村は、政宗をひと目で好きになった。男としてではなく、人間として、友として。
 それとも、ひと目で、ではなく――ずっと前から、だったのかもしれない。
 不思議な話である。
――もしかしたら自分も実際に、ずっと昔に、政宗を知っていたのだろうか。
 だとすればこの幸村もまた、秘密を持っているのだろうか。
 ただそれを、覚えていないだけで。
 ゴキュゴキュと500mlパックの牛乳を、ストローも使わずにあおって、幸村はふうむ、と思案気に顎をなでる。
 教室の窓から戸口へ、ぬるい風が吹きぬけた。
「旦那もさぁ、哲学的な顔でおやつに熱中してないで」
「む?」
「おう、議論に加わりやがれ!」
「幸村はさ、」
 水着と浴衣どっちがいい?
 慶次の顔があまりにも真剣だったので、幸村はギシリと固まった。手の中の牛乳パックが潰れた。すんでで残りの半分が飛び出すところだ。
「そ…」
 それは、と幸村が何の話か確認しようとする前に、「水着!」と慶次が叫ぶ。
「水着だろ!?そりゃ浴衣の女の子はかわいい。かわいいけどあれは神聖不可侵って言うか何ていうか、男子たるもの露出度を求めないで何のための夏だよ!ね?」
「いや、そ――
 それは如何か、と幸村が言う前に、「ばぁか」と元親がさえぎる。
「水着ってのはな、海辺の特攻服なんだよ。露出度が高かろうがなんだろうがお天道さんの下、水着の娘っこが海に――そいつぁ輝いちゃいるが、健康的なばっかりだろうが。それより、夜だろ?ちょうちんの灯りだろ?浴衣で裾から覗くくるぶしだとか、うなじだとか、後れ毛だとか!それが浪漫ってもんじゃねえのか!?」
「そ」
 それがしは、と幸村が言う前に、「だからさぁ、」と佐助が頬杖ついてシャーペンをふる。
「海と花火大会、両方行けばいいじゃん。同じ日になるけど昼と夜だし」
「この欲張り!」
「もはやそういう問題じゃねぇ!どっちか選べ!」
「やだよ俺様は両方見るんだもう決めた」
――こいつら破廉恥伝説、それがしの話など聞く気もないではないか。
 幸村はアンパンの紙包みに手をつけた。
「真田の旦那」
「もが?」
 と、振りかえれば佐助の目の妙に澄んだ鳶色とかちあった。
「夏休みの意義ってなんだと思う?」
 幸村はアンパンの餡の甘み、パンの香ばしさを咀嚼して、飲み込んだ。
――鋭気を養う」
「だよね!」
「と言うか全員そろわぬなら元親殿のいない日に花火、慶次殿のいない日に海に行けばよいのでは?」
 だって破廉恥だもの。
「ちょ、幸村!」
「てめえ真田このヤロウ!!」
「いやさっすが旦那、いいこと言うわ〜」
 慶次と元親がつめよる後ろで、佐助は机を叩いて笑っている。



 この幸村に秘密があったとして。
 佐助にも未だ秘密がある。
 隠すことなどもはや何もないような顔をしているこの男は。
――きっと、伊達政宗が現れて、それで、他人にその秘密の存在をほのめかす必要がなくなった。それだけなのだ。
 幸村が忘れた何かを佐助は覚えている。
(九月に生まれた誰かのことを。その青い背中を。不思議な縁を生んだ場所を)
 佐助は自分の秘密を知っている。
 幸村は自分の秘密を知らない。
 猿飛佐助という男は、昔から真田幸村と正反対だ。
 ただただラバラに違うものを見ているのではない。
 いつもいつも隣にいて、同じ場所、向きをたがえて立っていた。だからこそ、光と影のように正反対だった。

『真田の旦那、』

 夏の日差しに金色にすける、赤みの強い橙色は、昔から変わらない。
 その最初の記憶がどれほど昔であったのか。
 遠すぎて、幸村にはもう、思い出せない。
















     Long ago. 3



















11/09/21