「今年のFather's dayはおれが料理作ってやるから、楽しみにしてろよ」
 と、政宗が言った。
「もったいなきお言葉にございます、政宗様」
 小十郎は微笑んだ。
 いつもと同じくふたりで夕食をとる、夕方六時。
 ダイニングの戸を開け放っているので、テラスに続く居間のガラス戸の外、日がまだまだ明るいのがよく分かる。六月も下旬だ。
「昼は父上とLunchの約束で、Granpaには靴を送ったんだ。夜にCallする」
「お忙しいですな」
 相槌を打つ小十郎に、政宗は照れたように笑った。
 背筋をすっと伸ばし品の良いしぐさで茶碗と箸を持ち、小十郎の作った夏野菜の煮びたしを嬉しそうに口に運ぶ様子。どれをとっても、この強面の守役が脈絡もなく相好を崩すに足るすこやかさである。
 父の日には、つい二年前に政宗を引き取った実父と、アメリカの養父、幼いときから政宗についている守役の小十郎、三人を気にかけなければならない。幼いころに右目の手術で渡米し、そのままあちらで育ったという複雑な育ちで――けれどそれを苦にする風でもない。
――心身ともにすこやかに、お美しく成長された。
 もうすぐ十八になろうという年頃の少女にしては、少し細身の、伸び盛りの体型。日に焼けない肌は白いが健康的だ。さっぱりとしたショートカットの髪は、琥珀色の艶をのせる黒。
 端正、のひと言では語りつくせない容貌の、唇はあどけなく、鼻筋が通り、切れ長で猫めいた左目は理知的で、――そこに愛くるしい表情を浮かべるのだから完璧だ。
 と、小十郎は思っている。
 政宗に会った人々はことごとく目を奪われ、本人だけでなく小十郎や父の輝宗をつかまえては『美しいお嬢さんですね』と絶賛するのである。半分はお世辞としても、半分は本心だろう。
 と、小十郎は思っている。
 これは確かに小十郎の盲目的な思い込みばかりではないのだが、例えば政宗の表情の半分以上が『愛くるしい』よりも、魔女のように企みを含んだ微笑であることや、やたらと口が悪くて相手をぎょっとさせることや、従妹の少女とつるんでひったくり犯相手に大立ち回りを演じたことや、数え上げればきりがない政宗の“個性”に関してまでも魅力のうちに含め感涙する姿は――もはや親ばかである。
 と、周囲の人々は思っている。
 さらに小十郎に言わせれば、政宗様は文武両道、芸事にも長け、まさに才色兼備であるらしい。
 文。学校の成績はよろしい。得意科目は目覚ましく興味のない科目もそれなりに、という数字がテストや通知表に現われるわけだが、そればかりではなかった。頭の回転はひたすら速く、物覚えがよい。現代の経済界の動きや古代中国の兵法に通じ、ポーカー花札麻雀百人一首、何をやらせてもすこぶる強い。
 武。これはもう運動神経抜群、合気道と剣道の心得があり、小十郎が教えた護身術を喧嘩殺方にアレンジして敵をばったばったとなぎ倒す――などという機会はそうそうないのだが、先だっては暴れすぎた従妹の窮地に駆けつけ、小十郎が追いついたときには夕日さす河川敷で、地元の不良校が四天王に忠誠を誓われていたりもした。
 芸。お茶に踊りに書道をこなし、気まぐれにポピーのつぼみばかり買ってきて家中の花瓶に活けたのを、フラワーアレンジメントのひと言で片づけたりしている。
 このように完璧な子女である、と小十郎は思っている政宗さまだが、その小十郎にも懸念事項がひとつあった。
「政宗様の手料理となれば、腹をすかさねばなりませんな」
 大袈裟だな、と政宗は笑って麦茶を口にする。
「死ぬほど腹が減ってなきゃ食えないようなもんは出さねえぜ?」
 彼女が初めて包丁を握ったのは一年前のことである。学校で調理実習があると言うので小十郎が手ほどきしたのだが、翌日帰ってきた政宗は、カップケーキを作るにあたって卵がさっぱり泡立たなかった――とだけ報告してくれた。
 それから時は経ち、政宗が料理を教えて欲しいと再び小十郎に真剣な顔を見せたのは、ひと月前のことである。
 政宗の包丁裁きと鍋に響く異音に戦々恐々としながら、あくまで見守るのがここしばらくの小十郎の使命だ。
――だが、問題はそこではない。
「無論、政宗様の上達ぶりを楽しみにしております。ですが材料を調達する際は、この小十郎がお供を――
「No,駄目だ」
 きっぱりと政宗は首を振る。
「とにかくその日だけは、お前も夕飯の心配はするなよ?片付けもおれがやるし、重いもんは」
 佐助に持ってもらうから。
 何気なく発せられた名前に、小十郎の笑顔は石のように固まった。
 その耳の内で、警鐘が鳴り響いた。



 料理と言えば思い出すのは、政宗が幼いころにくりかえされた、おままごとだ。
「こじゅーろ、ごはんですよ」
 泥団子を小さなテーブルに並べていた、小さな政宗。その姿をまぶたの下に描くだけで、うっかり目頭が熱くなる二十九の小十郎である。
 アメリカで政宗を育ててくれた養父の家は、明るく日を透かす楓の木立に囲まれていた。
 政宗はその庭に脚の短いテーブルを置き、何の歌ともつかない鼻歌を歌いながら、少し離れた“キッチン”で林からとってきた土を大きな楓の葉に盛り付け、枝を配置したりしていたものだ。
「ては、あらいましたか?」
 準備が整うと、政宗は必ずそう言って首を傾げる。日に照らされてきらきらと光る、賢そうな左目。
「洗いました、政宗様」
 小十郎はそのテーブルに向かって正座し、小さな政宗が葉っぱの皿の泥やどんぐりなどなど甲斐甲斐しく運んでくるのを見守った。
――将来は良妻賢母、いやいや、嫁になんか行かせねえ。だがしかし。
 真白なウェディング・ドレスを着た未来の政宗をまぶたの下に描くだけで、うっかり目頭が熱くなる十七の小十郎である。
 しかし完成した食卓は、いつでも「ふせろ、こじゅーろ!」の一言でひっくり返された。
「グランパをねらう、ヒットマンがあらわれたぜっ」
 グランパというのは政宗の養父である。
 祖父と思われるほどの年齢ではないが、見事な銀髪を政宗は白髪と勘違いしていたようだった。
「グランパのいのちは、おれがまもる!」
 政宗のグランパは大体そういう時、デッキチェアで新聞を読んでいた。
「気をつけろマサムネ、敵の得物はワルサーPPK。家の影にひとり、生垣の後ろにふたり、最後のひとりは郵便受けの影からRPGランチャーで俺達を狙っている」
「Oh…!」
 ぺらりと余裕顔で新聞をめくるグランパは、隠れる気などさらさらない赤いジャケット。政宗は大きな目を尊敬に見開く。
「いくぞこじゅーろっミッションワン!」
「は。ミッション1は敵に悟られず電話機までたどりつき、応援を呼ぶことです」
 駆け出す政宗と小十郎を見送りながら、「セルフォン持たせるか…」とグランパはぼやいていたものである。
――持たせるべきではなかった。
 と小十郎は重くため息をつく。
――否。例え政宗様が携帯電話を持たなかったとしても、虫は花の周りで飛び回るもの。
 それが狡猾な猿であればなおのことだ。
『聞いているのか、小十郎』
「は、うかがっております。輝宗様」
 小十郎はびしりと背筋を伸ばし、己の携帯電話から響く低く穏やかな声にいっそう集中力を傾けた。
 声の主は政宗の実父、伊達輝宗その人だ。
 身寄りのない小十郎を引き取り、最愛の娘の守役という大任を任せ、その政宗に伴ってアメリカに留学する間も何くれとなく面倒を見てくれた。子どもの世話を押しつけただけと誹る輩もいるが、小十郎にとっては何よりも、政宗と我が身を引き合わせてくれた大恩人である。
 今では仕事の上司でもあり、小十郎にとってはこの世で政宗の次に重要な位置を占める人間といっても過言ではない。
 その輝宗の声が、今はどこか厳しかった。
 今日はファザーズデイ当日。
 日曜日とて暇ではない身の輝宗も、昼は愛娘とランチを楽しんだはずである。
 いつもは破れたジーンズでごろごろしている政宗も、先日小十郎と選んだハイウェストのワンピースにそろいのボレロなぞ着て、鼻歌を歌いながら出かけていった。そしてご機嫌で帰ってきた。
――ランチ自体ではなく、そこで出た話題が問題なのだ。
 否。否。否。
『それでその、猿飛…という少年は、お前の目から見てどうなんだ』
――問題は話題ではなく、あの小僧の存在だ。
 小十郎は内心で歯軋りが止まらない。
 猿飛佐助、という名を初めて小十郎が耳にしたのは、けして最近のことではなかった。
 政宗の友人に男子は珍しくない。男勝りかつ我が道を行く性格で、地元で知られる不良の番長(というものが存在するのだ、この町は)には“筆頭”と呼ばれ崇められている。
 同じ年頃の従兄がこの町の男子校に通っているため、何かと行き来があることも小十郎は把握していた。母方の従兄に当たる毛利家の元就、その幼馴染であるという長曾我部元親――そうした名前とともに、政宗が『遊んでくる』と蝉とりにでも行くような無邪気さで出かける際の面子は、しっかり調べていたのだ。
 猿の名前は、そこですでに登場している。
――その他大勢のひとり、と侮ったのが間違いか。
 小十郎は咳払いをした。
 声を低めた。
「私からは、政宗様にふさわしい相手とは、言いかねます」
 ほう、と電波の向こうで輝宗は応える。
『理由は』
「直感です」
 ほほう、と輝宗はむしろ、興味を抱いたようだった。
『武田信玄公の下で、真田家の子息と一緒に育ったと聞いたが』
「それは、事実ですが…」
『…人柄に問題がある、と?』
――人柄。
 小十郎は沈痛な面持ちで、唇を引き結んだ。



 政宗様に下心を持つ輩、という先入観が――なかったとは言いがたい。
 一人暮らしを始めたから遊びにおいでよ、などという誘い文句は、警戒心のない政宗には普通のことでも小十郎にしてみれば万死に値するレベルの下心である。
 万死と言えば、その昔おさない政宗は『100万回生きたねこ』という絵本を読んでポロポロと大粒の涙をこぼしていたものだった。
 百万回の生についてまわる、百万回の死。
――猫が百万回なら、下心のある猿には一千万回ほど死んでもらおう。
 それは不穏な思考ではあったが、事実――
(あまりに胡散臭い…!)
 というのが猿飛佐助に直に会った小十郎の、正直な感想であった。
 地毛だというオレンジがかった赤毛、ひょろりと痩せていながら十分育った体躯。
「はじめまして、猿飛佐助です」
 へらへらと一見人好きのしそうな――相手を懐柔しようという笑顔だ。と小十郎は判じた。
「片倉さんですね。お噂はかねがね」
 しかも時折垣間見える、人を見定めるような目が、いっそう油断ならない人物だという印象を与える。どういった血筋か鳶色をしたその目は小十郎を見ると、一瞬まぶただけを細め、笑った。
 見透かすような笑いに、小十郎はかつてない戦慄を覚えた。
 そもそも政宗と同じ年の男子が、このかたぎに見えない小十郎と面して一瞬もたじろがないということ自体、異常なのだ。
「いや、政宗さんと仲いい連中だと結構いますよ。たぶん」
 真田の旦那とか前田の旦那とか、ねえ?
 猿飛がへらっと笑って声をかけると、じっと小十郎の様子をうかがっていた政宗がハッと猿飛に向き直った。
「そ、そうだな。…おい小十郎、もういいだろ?」
 まったくよくないです、政宗様。
 小十郎はそんな言葉をグッとこらえた。
 ここまで来て、今さら『やっぱり駄目です』と言うほどの理由をこじつけることさえできない。
 いざとなったらチチキトクとでも言って乱入しよう、輝宗さまも許してくださるだろう…と腹を決めて、小十郎は猿の玄関先から立ち去った。
 幸いと言うべきか抜け目なくと言うべきか、遠くのビルから監視する小十郎の望遠レンズに猿の不埒な行いが映ることはなく、守役は自ら覚悟した切腹の運命をまぬがれたのだった。
 帰りの車の中で、政宗は照れた時のくせで、そっぽを向いて唇をとがらせた。
「…小十郎はどう思う」
――どう。如何。
 小十郎は言葉を選んだ。
 ごく客観的に言えば、髪の色は理由にならないし、とんでもなく失礼だったわけでもなく、頼りないということもなく、武田信玄が面倒を見ているというほどだから身元は確かだ。
――とてつもなく胡散臭いという印象は受けたが、ただそう言って政宗様を納得させることは至難の業。
 下手にイチャモンをつけて『小十郎はおれ離れできてねえんだから』などと判断されては、今後あの小僧について何を言っても真面目に聞いてもらえないかもしれない。
――この小十郎が受けた印象を、できるだけ的確に言い表さなければならないだろう。
 そう、あの目を見ると。
 何かを思い出しそうになる。
――誰かを、思い出しそうに…。
 考え込む小十郎を、政宗が左目でじっと見ていた。
 小十郎はグッとハンドルを握りしめた。
「アメリカで会った、結婚詐欺師が、あんな顔をしていましたな」
 政宗は一瞬、ぽかんとしたように唇を開き。
 猫めいた目をたわませた。
「褒めるなよ小十郎」
 あいつ、そんなにHandsomeじゃないぜ?
――ポジティブな政宗様である。
 小十郎はそのときの、何とも嬉しそうな政宗の表情を思い出すだけで、眉間の皺がますます深くなるのだった。
 指でさわって確かめていると、携帯電話からフ…とため息がもれ聞こえる。
『そうか……そんなにイケメンなのか……』
「そういうことではありません、輝宗様」
 小十郎はびしり、と背筋を正した。
「容姿で言えば中の上、いや下、とにかく――
『小十郎』
 電話越しの声は、落ち着きを取り戻したように聞こえた。
『これまで父親らしいことはしてやれなかった私だ。もとより政宗が選んだ相手なら反対はしない』
 人を惹きつけ安心させる声だ。
――政宗様は確かにこの方のお子だ。血筋を感じる。
 ただ、と声は続ける。
『女の子が十六で結婚できるというのは、早すぎやしないか…?』
「輝宗様…!」
 小十郎は目頭が急激に熱くなるのを感じた。
 嗚咽をこらえるのに精一杯だ。
 夕方、政宗が食材を買い込んできたときには、小十郎は惜しくも外に出ていた。
――あの猿が一緒だったなら、荷物をぶんどって追い返してやっただろう。
 どうしたって小十郎には気に入らないのだ。
 未だにはっきりと、彼氏、あるいはそれに類する言葉を、政宗の口からは聞いていない。
 だが、政宗が『料理を教えてくれ!』と言い出したのが、奴の一人住まいの部屋に行ったすぐ後のことだったことも、その意味も、小十郎はよく分かっている。
 今夜の政宗手製のディナーは美味だった。
 うまければうまいほど、現実は酷なのである。
――まあ、まだまだカレーのルーが辛すぎたり、ジャガイモの皮が残っていたりしたのだが。
 通話を切った後の部屋に満ちる、静寂。
 キッチンの方では政宗も誰かに電話していたようだ。Good night,と優しく響くハスキーヴォイスは――多分、アメリカのグランパと話していたのだろう。そうだろう。そうであって欲しい。いやまさか。
 小十郎の望みを証明するように、すぐさま手元の携帯電話が着信を知らせる。
『おいコジュロウ。マサムネ、あいつ男ができたのか』
 政宗のグランパは単刀直入だ。
 ざっくりと切りさくような言葉に、小十郎は目元を覆った。
『COOLなニュースだ!』
――…あの猫はどうなったんだろうか。
 昔、政宗が読んでは泣いた、それでも何度も開いた絵本を思い出した。
『おい、聞いてんのかコジュロウ』
「……」
『お前もあんまり大人げないマネすんなよ?』
 額で乱れた前髪が、揺れる。
「私も法律は遵守する所存です」
 Wow,と電波の向こうで政宗のグランパは感嘆の声を上げた。



 キッチンからは、皿を洗う水音と、なつかしい鼻歌。
 エプロンをした後姿の向こうには、昔、ままごとの準備にいそしんだ幼子が透けて見える。
――その向こうには。

『料理ってやつは、覚えると楽しくてな』

 いつか見たような、幻のような蒼い背中。
 それが成長された暁の、この方の姿なのだろうと、小十郎は思っている。
 そしてきっと、それまで守りぬいてみせるのだと、決意は固く、深く。



(あの絵本の猫は)
(愛した相手に先立たれて、泣いて、泣いて、泣いて)



――いつからあるのかも分からないこの意思が。

 あの男だけは近づけるな、と。

――警鐘を鳴らし続ける。

 遠い遠い、どこかから。

















     Long ago. 2
















※『100万回生きたねこ』佐野洋子



10/10/17