泣いてなどいなかった。
 笑ってもいなかった。
――そんな気がする。
 昔どこかで見た誰か。
 かすがの、幼いころに失くした父か、母か――否、やはり男だったように思う。泣けない人間。
 そんな、気がする。
『どこにも、』
 どこにも見つからない。と。
 泣くこともできなかった誰か。
 その誰かを思うと、かすがは強い不安に襲われる。
(謙信さま……謙信さまは?)
 かすがの命に等しい人も、同じように消えてしまったのではないかと。
 駆り立てられるように何度も何度も、謙信の屋敷を訪れた、幼いころ。

――もう、昔の話だ。





「料理、できないって言ったんだ」
 そしたらあいつ、鳩に豆鉄砲くらわせたみたいにビックリ!って顔しやがってさ。
 政宗が言った。
 かすがは目を見開いて、豆を箸から落とした。
「Ah-,いや、あからさまに吃驚されたわけじゃねえんだけどな?あいつ普段へらへらしてて何言っても柳に風、みたいだろ。だから何かこっちがびっくりしちまって…」
「政宗」
「意外と古臭い奴だから、女は料理するもんだって思ってんのかも」
「おい、政宗」
「ん?」
 かすがの呼びかけに、政宗は――かすがの友人は、パッと顔を上げた。
 茶色がかった黒髪が揺れて、右目に白い眼帯が垣間見える。
 鋭い印象を与える左目がきょとんと見開かれると、猫めいて愛らしい。
 かすが共々クラスメイトには敬遠されがちな政宗だが、時折――否、しばしばこういう稚い表情をすることを、かすがは知っていた。
――学校では一番近しい、自分だから知っていた。
 と、思っているのだが。
「お前の言っている“あいつ”というのは、まさか猿飛何某のことか?」
「ナニガシ……まあ、Yesだな。佐助のことだ」
 猿飛佐助。
 オレンジ色の軽薄な頭でへらへらと締りのない笑顔を浮かべる、痩せた男子の姿が頭に浮かんだ。
 かすががよく知る、できれば忘れたい、願わくばどこか遠くでしっかりした嫁でももらって自分の人生からは消えて欲しい、不肖の幼馴染である。
「あのバカ助と何故そんな会話をしているんだ…」
 疑問の形をとった言葉に滲み出るのは、怒り。ときどき諦め、ところにより憎悪。
――随分前から、奴がちゃっかり政宗の『お友達』の位置にいるのは知っていたが。
 かすががクリーム色の箸を握り締めるのに、政宗は「そう、そこだ!」と朱塗りの箸を、行儀悪く振り上げた。
「そもそもあのアホ助はな、ろくな食生活をしてやがらねえんだ」
 憤懣やる方なし、とばかりに小さな唇を尖らせる。憤懣の方向性が噛み合っていない事にかすがはこめかみを押さえたが、政宗は気づく様子がなかった。
「去年までは武田の屋敷にいたはずで、幸村並にまっとうな飯を食ってたはずだろ?なのに一人暮らし始めてから朝なし、昼パン、夕方バイト先でコンビニ飯だ。バイトとかいうのが武田のおっさんのとこだから心配してなかったんだが、話聞いてるとあっちじゃ佐助のコンビニおにぎりは男子高校生の間食くらいに思われてるらしい……No!あれが夕飯のつもりなんだ!冷蔵庫なんか2リットルのペットボトルが一本入ってるだけなんだぜ?持ってったケーキの箱で一段うまるってどういうわけだよ!でな、自炊くらいしやがれって言いかけたんだが、」
 立て板に水とばかりに流れていた声が尻すぼみになる。
「…俺だって、料理できないし、なあ」
 花の形に切られた人参を箸でつかみ、政宗はしゅんとして――などという可愛らしい心の機微がこのサーベルタイガーのような少女に存在することも、学校ではかすがしか知らない。学校では。
――忌々しい。
 可愛らしい唇がそれぞれにため息をついた。
 春の日差しが彩る中庭のベンチ。紺地の上下、セーラーカラーには白い線の入った制服で並んで座るふたりの、政宗の膝の上には黒塗りの重箱がある。
 朱塗りの箸に似つかわしい、少し古風で良い品の弁当箱である。その中に詰まるヘルシーな昼食は、彼女の兄代わりとも言うべき男が作ったものだ。ヤクザ紛いの顔で役所勤め、趣味は野菜作りと料理と子守。子守は政宗が生まれたときから彼女の面倒を見ていたためで、料理は本家に帰れない政宗と暮らすために覚えたもので、野菜作りは政宗の口に入る野菜が農薬まみれなのではないかという強迫観念ゆえに始めたらしい。要するに人生の大半が政宗のために回っている男である。
――あの片倉小十郎は。
「政宗」
「何だ?」
「片倉はその、知っているのか。つまり…」
 今の話から要約するに、政宗は一人暮らしを始めた男子高校生アニマル飛某助の部屋にあがりこんだのだ。
「アニマル飛ってうさぎ跳びみたいだな」
「うさぎ跳びで構わん。行ったのか」
 政宗は俵型に固められた米を口にしながら、こくりと頷いた。
「ん。小十郎の車でな」
 かすがは眩暈を感じて箸持つ右手の手の甲を眉間にあてる。
「……まさか、片倉がアレを認めて……」
「長い道のりだったぜ」
 白い歯がレンコンの素揚げをさくりとかじる。
「最初のうちかすがの友達だって言ってたから、どうもうちの学校の女子だと思ってたらしくてな?奴が一人暮らし始めたから遊びに行くっつったのが先週の日曜で、元就の学校の奴だって知ってからが大騒ぎだ。男の部屋に一人で行くなど言語道断この小十郎切る腹いくつあっても足りません、ってなあ。そこを何とか説得して」
「説得できたのか」
「まず佐助の人柄を話した」
 政宗は水筒のカップにほうじ茶をそそいだ。
 かすがはうなずいた。
「失敗したろう」
「Yes,話せば話すほど胡散臭くてどつぼにはまった。そもそも男は羊の顔しても心は狼、みたいに言われてな。それで、俺の人を見る目と判断力を信用しろと言った」
 政宗は苺をつまんだ。
 かすがはうなずいた。
「失敗したろう」
「Exactory,俺の想定する“男”は元就とか小十郎だから、一般の男子は分からないって。Strawberryいるかい?」
「ふむ。オレンジをやろう」
 Thanks.と政宗はそっけなく言って、かすがのプラスチックの弁当箱のふたに苺をころんと置いた。
「結局、約束はやぶれない、って主張して、小十郎が玄関先まで送って迎えにくる形で話をつけた」
「破格の譲歩だな」
 だろ?と政宗が頷くのはどちらが譲歩したつもりやら。
――長い道のり、とは奴の部屋に遊びに行くまでの事であって、片倉が奴を認めたわけではないらしい。
 当然だ。常人でも果て無き道のりは、あの軽佻浮薄な男が相手ではメビウスの輪になるに違いない。
 かすがは少しだけ、ほっと息をついた。
「それで…奴はどうした」
「小十郎?」
「バカの方だ」
 ついに助も消えた。実に奴の本質である。
 政宗は、拗ねるように唇を尖らせた。
「…へらへらしてた」
「殴りたくなるほどいつも通りと言うわけか」
 形のいい小さな頭がこくん、と頷く。丸い後頭部に黒髪が滑り、日に透けた辺りは茶色に染まった。
「前の晩に電話した時も、『ご挨拶しなきゃって思ってたんだ』とか言ってた」
 急に苺がすっぱくなった気がして、かすがは顔をしかめる。
「政宗」
「ん」
「お前、あのバカのこと…」



 好きなの?と、聞かれたことがある。
 かすが小学四年の、腹立たしい思い出である。
 猿飛佐助はクラスの中で、目立つ存在だった。特に成績がどうとか運動がどうとかではなくて、ただ髪の赤さと――しかしこれは、かすがの金髪と小太郎の紅赤毛のおかげで其処までではなかったのではなかろうか。
 佐助は、なんと言うか、『異質』だったのだ。
 男子の中で馬鹿騒ぎをするでもなく無口な小太郎とつるんで、人当たりは、水に絵の具が溶けるようにごく自然。
 大人びてるよね、などと言われたこともある。
 何故か、クラスの女子はそれを本人ではなくかすがに言う。かすがにしてみれば、それに受け答えするのは凄まじく面倒くさかった。佐助の話をする三秒の間に、敬愛する謙信様の美しさについて三つくらい語りたい――というのは、かすがにしてみればごく自然な感情だ。
――だって、佐助の話を、佐助のことを知らない人間とするのは、ごく不毛だ。
 かすがが佐助をバカだと思うのは、例えば佐助が自分の考えを言わないことだ。本音を隠すことだ。常にさらけ出せとは言わないが、四六時中そんな風に大人まで煙に巻いて、そのうち後悔するぞと言ってやりたい。
 実際に、言った。
「お前は誰にも分かってもらえなくていいのか」
 すると佐助はへらり、と笑った。
「かすがとか小太郎とか、真田の旦那が分かってくれるじゃん」
 嘘をつけ。
 またそうやって何かを隠す。だからかすがは腹を立てて、しばらく佐助と口をきかなかった。謙信になだめられるまで徹底抗戦だった。腹立たしいことに、戦ってるつもりだったのはかすがだけだったが。
 あるいは。
 あんたも猿飛とつきあってるの?と、聞かれたこともある。
 かすが中学三年の、はらわた煮えくり返る思い出である。
 名前どころかどこの学校の生徒かも知らない女で、かすがにはどうでもいい。ただその問いかけはあまりに屈辱的かつ、佐助のろくでもない一面をまざまざと表しているようだった。
――あんた『も』ってなんだ。
 悪いことに佐助はそれを否定しなかった。
 小太郎が冷静に、佐助に対する嫌がらせが目的ではないかと指摘した。
 かすがからすれば、いずれにせよ佐助があちらこちらで妙に気を持たせるような意味のないまねをした結果、とんでもない汚名を着せられたも同然だ。
 雷が落ちる勢いで問いただした。
 佐助は困ったように笑って。
「ちょっと人を探しててさ。それが縁で知り合いが増えたような気がしないでもない、かなー」
「そうか。分かった。殴らせろ」
 低い声で言えば、ぎゃーっと悲鳴が上がった。
「探し人というのも女か」
 男だよ!と慌てた様子で両手を振る。
「男で、多分俺たちくらいの年」
「名は?」
 聞いた瞬間、フウ、と佐助の気配が変わった。
 気配か、表情か。
 いつもの上辺の顔ではない、時折しか見せない、顔。
 鳶色の目がじっと、その表情を見逃すまいとするように、かすがを見た。

「…伊達、政宗」



 政宗がかすがのクラスに編入された時、佐助のことを思い出さなかったと言えば嘘になる。
 短い髪と、凛々しい鼻筋と、すらりとした手足に、幼いころなら男子に見えただろうか、と考えたことさえあった。
 転入して最初の日、政宗は何故かかすがに学校の案内を頼んできた。当然のように。
 理由は「肝が据わってそうに見えたから」だそうだ。
 学校の案内をする間に、かすがは小一時間ほど、あるいはさらに二時間ほど追加で謙信について語った。政宗は聞き流すような顔をして聞き、放課後にぽつり、と。「あんたは面白いな」と言った。馬鹿にした様子はなかった。
――言い訳はするまい、と思う。
 かすがは佐助に政宗のことを話さなかった。初めての女友達をとられたくなかった。
 奪われる、と直感的に悟ったのは、幼馴染の本気をよく知っていたからだ。結局ふたりを引き合わせたのもかすがではなく、運命――とは思いたくない、おそらく佐助の執念だろう。
 佐助が政宗の手を取ったのを見て、怒りで目の前が真白になった。
 後のことは思い出したくない。
――否、忘れてはならない。怒りで我を忘れるなど言語道断の未熟さだ。
 しかも結局それで佐助には借りを作ってしまい、後々まで政宗に会う口実を与えてしまったとも言える。
 後悔が走馬灯のように駆け抜けた。
 かすがの長い沈黙をどう受け取ったのか、政宗も水筒を両手に包んで考えこんでいる。
「…佐助のこと、どう思ってるかってな」
 やがてぽつり、とハスキーボイスが呟いた。
「小十郎にも聞かれて、うまく答えられねえんだ。嫌いじゃないけどたまにすっげえ腹立たしいし、一緒に居てtensionそんなあがらねえし。かすがとか元親とかと遊ぶ方がはしゃげるんだぜ?――でも」
 左目が空を見る。
 鳥がどこかへ向かっている。暖かいどこかへ。
「会うと、嬉しいんだ。笑うと嬉しいし、びっくりされるともっと嬉しい。腹立たしいときも、なんでか悲しくなるときもあるけどな。雨の匂いとか、なんでもないことでドキドキしたり泣きそうになったりする…。――なあ、これって」
 ヒステリーの一種か?
 と、政宗は深刻な顔でかすがを見た。
――いっそそういう事にしてしまおうか。
 ヒステリーだ。気の迷いだ。ナイチンゲール症候群だ。
 かすがは陰鬱な顔で、首を振った。
「私は奴を見ると血圧が上がってわめきたくなる、まあヒステリーだな。奴が悪い」
 お前のそれは、私のとは別だ。
「別か」
 政宗は鸚鵡返しにつぶやいた。
「小十郎にはアレルギーの疑いがあるって言われたんだ」
「流石だな」
「Really!?」
「いや、アレルギーも違うだろう」
 かすがが仏頂面で答えると、政宗は「びっくりさせやがって…」とカップに口をつけた。熱っと舌を離す。猫舌なのだ。そんなことは知っている。
『政宗って猫舌でさ、かわいいよね』
――あのバカに言われるまでもなく、知っている。
 運命の相手。
 そんなふざけた事を口にしたのは前田慶次だ。
 謙信様と家が近いからとつけあがって、と怒りを募らせるかすがの呪詛を、『あんたと謙信、お似合いだよっ』の一言でかわす常春の男。
『佐助ってさ、ずうっと政宗のこと探してたんだろ?』
 他人の恋で大いに盛り上がる前田慶次には、楽しい話であるらしい。
 政宗には秘密だ。
 かすがも小太郎も前田慶次も、真田幸村も長曾我部元親も毛利元就さえ知っている。政宗だけが知らない。堅く口止めされたのだ。
『見つかってよかったじゃん!応援してやろうよ』
 明るく言ったのは慶次だけだ。小太郎は素直に、真田は生真面目にうなずいた。長曾我部も少し戸惑いながら『そうだなあ』と相槌を打った。毛利は冷たく聞き流していた。
 佐助を知っている者たちの心は、どちらかと言えば――あれだけ執拗に探していたのだ。邪魔はするまい、とりあえず。ただし政宗が嫌がって、佐助が犯罪に走りそうなら止めてやらねばならないだろう。人として。
 そんな感じだ。
 かすがは。
――何故だか、無性に気に入らない。
 応援など、してやるものかと、そう思う。
――けれど。
 重箱を薄藍に桜を染め抜いた布で、きゅ、と包む。
 丁寧なしぐさで隣に置くと、政宗は細い脚をくずして組んだ。
「佐助との友達づきあいみたいなのって、全部あいつが始めたことなんだよな。俺はそれに乗っただけで、……それが、たまに、」
 悔しい。
 つぶやく声に、かすがは瞑目した。
「政宗」
「ん?」
「…私は、奴がいい目を見るのは腹立たしいこと地獄の釜も煮えるほどだが、――お前が」
――政宗が佐助を、そんな風に想うと言うのなら。
「お前のことは、応援する」
 政宗はきょとんと目を見開いて、それから、にぃっと子どものように笑った。牙のような犬歯が、無邪気に口元に覗く。
「愛してるぜ、かすが!」
「いらん」
 かすがの中で愛を受け取る器は上杉謙信その人のためにある。
――だが、嫌ではない。
「Coolだねぇ。でな、料理なんだが」
 こんど小十郎に教えてもらおうと思ってさ、と続く政宗の言葉にかすがは心中、守役へ同情した。
「かすがも一緒に教わらないか?謙信公にまともなもん作ってやりたいだろ」
 同情はすぐにかき消えた。
「け、謙信様に…私の作ったものなど…」
 実は二度三度、成功とは言いがたい菓子の類を隠そうとして見つかったことがある。美しい笑顔で『わたくしへのおくりもの、ではないのですか?』と奪われたことがある。かすがのハートも一緒に奪われたものである。
「少しでも、お口にあうものを…」
 無意識につぶやけば、バシンッと背中をはたかれた。
「よし!決まりだな!まず卵の泡立て方から聞こうぜ」
 先日の調理実習では泡だて器をひしゃげさせたかすがである。
「あ、あれは道具が柔だったんだっ。お前は卵の割り方からだろう!」
 叫び返せば政宗は声を立てて笑った。
 幸せそうに、笑った。





 泣いてなどいなかった。
 笑ってもいなかった。
――そんな気がする。
 昔どこかで見た誰か。

『どこにもあいつが見つからない』

 泣くこともできなかった誰か。
 愛した者が、探しても、どこにもいない。いるはずがないのだと、笑おうとして失敗した。

『もう、どこにも、いないんだ』

 そんな顔をする男ではなかったはずだ。もっと不敵で、腹立たしいほど強い、はずだった。
――何がずっと探してた、だ。
 あの橙頭ではない。
――お前じゃない。悲しんでいたのは。
 悲しんでいたのは。





 かすがには思い出せない。
 隣で政宗が笑っていて、幸せそうに笑っていて、それ以上は思い出せなかった。





――もう、昔の話だ。
 遠い遠い、昔の話。
















     Long ago. 1



















10/06/04 改稿